第18話:見えざる狩人 前編
それは、まるで壁のようでもあったし、薄い油膜か壁を伝って滴り落ちる水のようでもあった。
地面から──もしくは空から地上へと向けて、円筒形の水色に輝く光の柱が戌亥沢と刃連町を取り囲む様に出現した。
なんの前触れも、警告もなく。唐突に。
だから、明らかな異常事態に驚いた二人は振り返り、踵を返し、急いで仲間達と合流しようとしたのだけれども。
──何か不吉なことが起こる前に仲間と陣形を組もうとしたのだけれども。
「んぐっ?!?」
何も無いはずの空間にぶち当たり、ずるずると前のめりに倒れる戌亥沢の姿は、側から見ればまるで熟練のパントマイムさながらであっただろう。
点ではない。
線でもない。
まさしく、壁と形容するに相応しい障壁が二人を一瞬で取り囲んだのである。その壁は、観察対象と観察者を隔てるガラスのようでもあった。
無論、この場合の観察対象は戌亥沢と刃連町の二人である。
「ちょ、え!? なんだよこれ! 二人とも大丈夫か!?」
やがて、という程に時間をかけず二人の許へと急行してきた外内らは半透明の障壁を叩きつつ、安否を問う。不思議な事に外内が壁を叩いているにも関わらず。
ビニール袋程度の厚さしかなさそうな障壁は打音を響かせる事も、衝撃で揺らぐことさえないのであった。
戌亥沢の知る世界には衝撃吸収に特化した素材があり、それは生卵を落とそうとも衝撃を散らせてしまうらしいのだが、これはそんな物理的なものではない。
明らかに──あからさまに、超自然的な。
異能的な力で生成されたものであることは明白。
すると当然、戌亥沢には一つの疑問が浮かび上がるのである。
発動者は誰だ、と。
『チーム:ドッグ』内において、こんな防壁──障壁を展開する能力を持った者は居ないはずなのである。或いは、能力不詳の戌亥沢か小瀧原の異能という可能性もあるがイルロラ曰く『使いたいと思うことが発動条件』なのであれば、その可能性は否定してもよい。
目的地を目前にしてバリアを張るなんて、天邪鬼もいいところだろう。
だからこそ、発動者を特定して是非とも邪魔をやめてもらわなければならないのだが──
「お、おい戌亥沢……なんかいるぞ……?」
案外、その答えは目前に迫っていた。
否、背後から迫っていた。
不意に聞こえた、たんたんっ、という小気味の良い音に振り返った戌亥沢の視界内にその答案は肉薄していたのである。
兎。
それは一目で兎と分かる程度にはモフモフで可愛らしい真っ黒なウサちゃんであった。が、それが兎だと理解出来たのが戌亥沢にとっては不思議で仕方がなかった。
だって。目で追えない程の速度で、蛇行しつつ。
しかも凄まじい勢いで跳び上がり頭突きを繰り出してきた兎を我々の知るか弱い小動物であるところの兎と押し並べる事なんて出来るはずがないのだから。
時速にして200キロメートルには達していたであろう、兎の頭突きを振り向きざまに腹部に受けた戌亥沢は盛大な嗚咽を漏らした上で膝から崩れ落ちた。
しかしそれでも、戌亥沢のゲームで鍛えられた動体視力は兎の胴体を微かに掴むことには成功していて。僅かながらも勢いを殺す事が出来たのはゲームの功名といえよう。
素早く。バックステップ気味に兎が元の位置へと戻る頃には、戌亥沢の意識は朦朧としたものへと変化していた。
悲鳴の代わりに込み上げた胃液は、忽ち食道を駆け上がり柔らかな草原の上へとぶちまかれる。あまりの衝撃に、戌亥沢の視界は──世界は暗転する。
そして意識が──
「立て! また来るぞ!!!」
刃連町に貸された肩によって繋ぎ止められる。
なんという失態だ、と戌亥沢は思った。いや、嘔吐の事ではない。
何の為にチームで行動していたのか、これではまるで敵の思うつぼではないか、と。
あの速度であろうと外内や投刀塚の異能であれば充分にカウンターないし迎撃は決められたはずなのである。
ましてや未だ相手の(取り敢えず『異能兎』と名付けておこう)行動パターンが判明していないとはいえ、一撃目から物理攻撃を仕掛けてきた手合いは戌亥沢にとって装備の面でも相性の悪い相手である。
主に斬撃による切創を防ぐ意味合いでは、厚い革製品というのは優秀な防具であろう。しかし身体に密着させて着込むという点では、耐衝撃性は無いに等しい。
キャッチャー用プロテクターとは違い、肉体と防具に層がないのである。
故に、単なる高速の頭突きであれどそのダメージは計り知れない。救いがあるとすれば異能兎の頭には柔らかな毛が生えており、硬球よりかは幾分かマシな死球であった事だろうか。
点滅し明滅する視界の中で戌亥沢は引き摺られる様に歩かされ、その度にまるで胃がねじ切れた様な疼痛に呻き声をあげる。凄まじい苦痛が彼を襲う。
「とっ、とにかく何とかしねぇと……っ! ってか、大丈夫か戌亥沢!?」
「いや……ヤバイ……次食らったら死ぬ自信しかない……」
威嚇か牽制か、或いは様子見か。先程とは打って変わってゆっくりとした足取りで対局的な位置どりを続ける異能兎。自然と二人の足取りは逃げ場──もとい回避スペースを意識する様に、光の柱の中央へと進む。
そして二人が障壁の壁際から中央へと辿り着く頃にはそれなりの時間が流れ、戌亥沢は幾分か意識を取り戻していたのであった。それでも込み上がる吐き気は抑え難いものではあったが。
「ここなら……多分いける!」
確信というか確証を得たような声音で、刃連町が叫ぶ。その語調には『もう安心していいぜ』という意が込められている様な、どことなく頼り甲斐のある響きが綯交ぜになっていた。
草叢というにはやや背の低い雑草が生い茂った平原ではあったけれど蟷螂らとの戦闘において、彼の異能は抜群に効果覿面であった。
今回は敵こそ違えどシチュエーションは同じ。況してや相手は超高速移動を行う異能兎である。
凄まじい勢いでカッターの刃に手を振り下ろす様なものなのだから。どうなるかは血を見るよりも──火を見るよりも明らかである。
が、刃連町が異能を発動する寸前の事であった。
異能兎がその場で跳ね始めたのである。たんたんっ、と後脚で地面を打ち鳴らしたかと思えば、次の瞬間。
「!!!」
鋭い刃と化したであろうはずの雑草を猛烈に掻き分けながら、異能兎が無傷のまま突進してきたのである。
先程から見せる後脚で地面を叩く行為には何の意味があるのだろう、と戌亥沢。攻撃の直前に見せる辺りきあいため的なものだろうか?
しかも分からない事はそれだけではない。
刃の海に飛び込んでも無傷でいられるのは何故なのか。
そんなに外皮が──毛皮が硬いのだろうか。いいや、そんなことはない。先程、異能兎の胴体を掴んだ際は毛皮自体は普通の兎と変わらない柔らかなものであった。
ならば何故?
分からない──が、考える時間は与えてもらえなかった。一瞬にして目前まで迫った異能兎は、弱った戌亥沢へと目標を固定しロケットの様な勢いで頭突きを──
「ぐっ…………う? ……ん?」
繰り出さなかった。
いいや。頭突きを繰り出すには繰り出したのだが、その威力は──スピードは初撃とは比べるらくもない程に弱く、遅く、劣っていて。
ダメージでいうならば普通の兎がぶつかってきた程度の軽々しいものであったのである。
「!!!」
驚いた様子でのろのろと逃げ出す異能兎(とはいえ、文字通りの脱兎なのだ。今までの速度に較べれば遅いという程度である)を呆然と見送ってしまったのは痛いミスだったかもしれないが。
そうして大幅に距離を置いて再び戌亥沢らへと視線を向けた異能兎は腹立たしげに、たんたんっ、とまたしても後脚で地面を打ち鳴らすのであった。
しかし、一時は得た攻撃の──反撃のチャンスをみすみす見逃してしまったにも関わらずそんな様子に解決の糸口を見出せるのが我らがリーダー戌亥沢 乾である。
「そうか……分かったぞ。勝てるぜ、ゆっきー……!」
戌亥沢は苦痛に歪んだ表情に、不敵な笑みを微かに浮かべた。
ようやく葦名弦一郎さんを討ち取ったので更新。




