第1話:非日常性
教室の扉を開ける。誰もが行った事のある動作ではあるものの、一概に。誰しもが同じ心情の元で行う行為とは断言──断定は出来ない。
教室に入れば楽しい一日が始まる。教室に入れば丸一日拘束される。昨夜のテレビ番組について友達と語り合いたい。先生と顔を合わせたくない。早くクラスメイトに会いたい……枚挙に暇はあるまい。
自宅だり何だりで過ごす安らいだ時間から、扉一枚を挟んで人はある種の閉鎖的な異空間(それが本人にとって楽しみか否かはさておき)へと心身を置く事になる。身を委ねることになるのである。
どうせなら学生生活は楽しむに越したことはないけれど、事実『学校に行きたくない』と拒絶に似た感情を誰だって一度は抱いたことはあるだろう。
戌亥沢 乾にとっては少なくとも、そうである。
人間関係が気まずいだとか、成績のことで胃が捻れ切れそうだとか、単純に学生生活に嫌気が差しているだとかそんな理由ではなく。戌亥沢は学校が──正確に言えば『教室』に入室するのがどうしたって嫌だった。
最早、嫌を通り越して。それこそ拒絶に近しい感情を抱いていた。
「はぁ……やだなぁ。今日もみんなが『アレ』で盛り上がってるんだろうなぁ……」
と、戌亥沢は誰に言うでもなく自分を慰めるような体で目前の扉に向かって呟く。がっかりと肩を落として呟く。
『アレ』なんて、大仰に気を持たせる様な言葉を選んだのは戌亥沢が『アレ』を気に入らないからである。
ただし注釈を加えるとするならば戌亥沢は『アレ』が気に食わないだけであって、決して興味がないわけではないのだ。例えるならば、"野球に興味はあるけれど選手名までは把握していない。にも関わらず贔屓している選手は誰かと尋ねられる"──そんな気まずさに似た感情だろうか。
しかし戌亥沢の気まずさなんて、幸せな悩みだと一笑に付されることも。はたまた一喝されるであろうことも承知の上、と明言しておきたい。
3年4組出席番号4番、戌亥沢 乾の悩みとは。
「おはよー」
と、意を決した戌亥沢は扉を開く──教室へと入る。
既に入室を済ませ、飲み物を飲んでいたり、机に突っ伏していたり、ノートを開いているクラスメイトが居る中で、疎らにそれらは存在していた。
「お。おっはよ、戌亥沢」
と、刃連町 理喜は顔を上げてフレンドリーに挨拶する。その手には、しっかりと握られていた。
軽薄短小な携帯デバイス──スマートフォンが。
教室の蛍光灯からの光を避ける様な塩梅で、机の下(というよりかは腹部の前)に匿われたスマートフォンに対して、戌亥沢は苦々しい笑みを浮かべる事しか出来ない。
これだ。これが嫌いなんだ。
今時ガラケーなんて使ってるのは俺くらいだ、と戌亥沢はややすれば自暴気味にはにかんで会釈する。ぎこちなく挨拶を返す。
そんな戌亥沢の気持ちを汲んでか汲まずか、刃連町はスマホの電源を切り(持ってない以上、そうとしか形容できないのである)ポケットへと仕舞い込む。案外、そこはツーカーと言うべきか。
小学校から高校まで一貫して同じ学校に通った者同士のそこはかとない意思疎通の賜物なのかもしれない。
戌亥沢 乾の悩み。それは周りがスマートフォンを所持しているのに、自分はガラケーのままなのだという、ともすれば矮小と言われかねない悩みなのである。
しかしそれは持つ者が持たざる者を笑う様なものだ──実際に自分一人だけが、ぱかぱかと二つに折れる携帯を使っていればその浮きようは悲惨の二文字に尽きる。
「おはよう、ゆっきー。……スマホでゲームでもしてた感じ?」
荷物を前列から数えて二番目の自席に置いて尋ねる。そこには嫉妬じみた感情やら拗ねた気持ちが綯交ぜになっていたのだけれども、刃連町は爽やかに笑って淀みなく返事をする。
「そそ、ソシャゲをちょいと」
「ソシャゲかー……」
目を伏せる。
周りがモンストの極めて強い敵を倒しただとか、キャラが足りないだとかで盛り上がっているのに自分だけ蚊帳の外というのは実に決まりが悪い。閉鎖的な空間において、共通の話題を持てないということがどれだけ苦痛かは筆舌には尽くしがたい。
「ソシャゲってお金かかるんじゃないの? お金がかかるんなら据え置き機とかの方がいいような気がするんだけど……?」
と、戌亥沢。
これはこれで『持たざる者』の偏見が如何にも滲み出ていて、憐れみさえ誘いかねないけれど。そこは幼馴染。
「基本プレイは無料ってのが大多数かなー。確かに据え置きは面白いけどさ、ポータブルゲームって考えれば悪い気はしないんじゃねーの?」
やんわりとしたサンドイッチ方式を取るのだった。
そもそも据え置き機だってタイトルによっては更なる徴収を強いられる事だってあるのだけれど。どちらもユーザーの任意であり、ライフスタイルに応じているサービスである事には相違ない。
嘆息。
「ポータブルゲームっていうなら俺はモンハンだけでいいや」
「モンハンも実はスマホで遊べるって知ってる?」
「マジで!?」
いつの間にか己の与り知らぬところで、大革命が起こっていた事に戌亥沢は瞠目する。信じられない、といった具合に愕然とする。
もうポータブルゲームも必要ないじゃん……。
「あーあ、スマホ欲しいなぁ……。俺もモンストやりたいよ」
と、やはり拗ねた様に諦観気味な一言を発したタイミングを見計らったかのように。
「……あ、いぬい。おはよ」
戌亥沢 乾の幼馴染にして生来の友。投刀塚 那束が登場する。
登場という如何にもなレトリックを選んだけれど、ただ単に教室の扉を開けて──閉めて、普通に入室した上で挨拶をしたというだけのルーチンワークを大袈裟に表現しただけだ。
何故、彼女──投刀塚の入室を過度に修飾したのかというと唯一彼女だけがこの時代、このご時世において携帯電話を所持していないからである。
同じ『持たざる者』であり(とは言え、ニュアンスは多少異なるが)、 幼少からの付き合いである事を鑑みれば、登場という言葉選びもそれほどに大袈裟ではなかろう。
「おお、おはよう」
なんて、当たり障りのない挨拶を交わしつつ戌亥沢は視線を自身の席の正面──一列目に向けて会釈する。
着席。
時刻は午前8時32分──あと十分足らずでHRのチャイムが鳴るけれど、席はいくつか空いたままだった。
「……二人ともゲームの話してたの?」
荷物の整理を終え、一息ついたらしい投刀塚が控えめな声音で尋ねる。投刀塚がゲームにそこまで興味が無いことを知っている戌亥沢からすれば、その質問は少しだけ意外ではあったけれど。単に会話に混ざりたいだけだろう、と推論し頷く。
「そ。ゲームってかスマホの話。いいよなぁ……スマホ」
「わたしは……スマホでもガラケーでもなんでもいいから欲しいなぁ、って」
と、憂鬱そうに俯く投刀塚。そんな彼女を見ていると、如何に自分の悩みが矮小なものかを戌亥沢は考えさせられる。否応無しに、思い知らされる。
示し合わせた様に唐突に落ち込んだ戌亥沢と投刀塚の様子に、驚いたらしい刃連町が助け舟を出す。
「親御さんにさー、『そろそろわたしも携帯電話が欲しい!』って駄々こねてみればいいんじゃねーの?」
「ううん、この前ダメって言われちゃった……でも、バイトするなら良いって……」
刃連町の助け舟は投刀塚の附注によって取り付く島もなく粉砕される──県立七瀬川高等学校は、特別な事情なしにアルバイトに従事する事を禁止している。
それはイコールで、投刀塚の携帯電話の所持を禁ずる校則──拘束だった。但し投刀塚が、どうしても必要だから、と学校に訴状を叩きつければ案外認められそうなものではあるのだが……。
「あ……そうだ。いぬい、これ」
と、不意に投刀塚。彼女の手に握られていたのは『現代社会』と油性ペンで書かれた(綺麗な文字だ)一冊のノートだった。
? 現社のノート?
「おおお! そうだった! ほら、戌亥沢!」
と刃連町も引き出しの中身を引っ掻き回し、折り重なったノートやら教科書類やらの中から一冊のノートを引き摺り出して戌亥沢へ手渡す。やはり、それも現代社会のノートであった。
「え? 現社……あっ」
そうか、と戌亥沢は二冊のノートを眺めて納得する。今日は現代社会の宿題提出日であったこと。そして、自身が現代社会に関する雑事をこなす係であったことを漸く思い出す。
放任気味でややアナーキーな現代社会の教師は滅多に宿題を出さない事が彼の『現社係』としての帰属意識を薄れさせていたけれど。二人のファインプレーにより事なきを得る。
大丈夫。既に宿題は終わらせてある。
「そうだったそうだった……もうボケが始まってんなあ……。みんなからもノート預からないと」
と、戌亥沢は自戒に似た言葉を呟いて立ち上がる。
『自戒』は幾ら何でも言い過ぎかと思ったけれど。自身でツッコミを入れそうになったけれど、自分の役職を寸まで忘れていた戌亥沢にとっては丁度いい位の言葉である。少なくとも反省はすべきだろう。
「今日は現代社会のノート提出日だぞー。持ってきたやつは俺のとこに持ってきてー」
と、教卓の位置まで移動した戌亥沢は声を張り上げる。寝ているクラスメイトにも、隅の席に座っている生徒にも届く程度の声量で宣言したからだろう。
無事に戌亥沢の声は行き届いていた──その証左に、左端最後列の生徒、割鞘 鶴城を始めに続々と黒板前へとクラスメイトが殺到する。
出席番号1番、芥川 千歳。2番、一番合戦 軍。3番、出雲 真鶴。4番、俺。5番、犬吠 色紙。6番、犬鳴 峠。7番、条前 掟。8番、篝火 灯火。9番、上猫実 窓香。10番、城戸 多民。11番、階 妹香。12番、旗幟部 桐人。13番、北見沢 南奈。14番、小瀧原 炬燵。16番、古書堂 すずり。17番、西戸崎 東生。18番、佐伯 佑佐。19番、水廉洞 都。20番、十河 百瀬。21番、環 承祺。22番、外内 表裏。23番、投刀塚。24番、蜂須賀 悠。25番、帚木 梢。26番、東寺 識。27番、日暮坂 逢魔。28番、真木柱 御法。29番、澪標 佑。30番、御鏡 香神。31番、御手洗 小鳩。32番、八洋 七海。33番、刃連町。35番、割鞘 鶴城。
一冊ずつ出席番号順に収集したノートを並べてみて、戌亥沢はいくらかノートが欠けていることに気付く。ボーンヘッドだろうか、ともう一度ノートを改めるタイミングで──時刻にして午前8時38分。
「っぶぇ、セェェーフ!」
「マジでギリギリやん!」
出席番号15番、黒一文字 白と34番、渡会 渉の野球部コンビが教室へとスライディング入室(比喩ではなく文字通りのスライディングである。危ねぇ)を果たしたのだった。
「あれ、戌亥沢。なんやっとーと?」
と、気息奄々に肩で息をする黒一文字が訊ねる。戌亥沢は万感の意を込めて、山積みになった現代社会のノートの一冊を手に取り、野球部二人に掲示する。そこには提出を促す狙いがあった。が──
「は? 現社? うわ、やってねぇ!」
「やっべぇぞ!!」
と、それぞれ渡会と黒一文字は大笑いするのであった。きっと誰かから答えを聞いて提出することだろう。
「じゃあ、二人は後で出して。先にこれだけ出しとくからさ」
戌亥沢も。というよりかは、クラス全員が良い笑顔──良いムードになったところで野球部コンビは照れた笑みを浮かべつつ着席する。
全員が着席したのを見計らい、これ以上ノートを提出する者がいないと判断した戌亥沢もまた自席へと戻る。一時限目は数学だ──頑張ろう。
そう内心で誓った戌亥沢が椅子に腰を降ろした瞬間だった。正確には、着席した瞬間。
目の前に、見知らぬ世界が広がっていた。
昨今ではあちらこちらの主人公が異世界へと飛ばされたり、転生したりすると聞きます。事由はともあれ、異なる世界で非日常的な生活を過ごすという事はとても楽しい事でしょう。それこそ、バカンスのように。
しかし、ただ楽しいだけでは単なる娯楽の域を出ないでしょう。楽しさの中に『死と隣り合わせ』、そんな要素を詰め込んだらどんな作品が出来るのだろう━━そんな動機でこんな作品をつくってみることにしました。