第六話 トリの卵
朝の日差しに瞼を刺激され、ミリアは目を覚ました。隣を見ると、すでに兄の姿はない。少しつまらなく思いながら部屋の扉を開けると、ふんわりとした芳醇な香りに鼻腔をくすぐられた。ミリアは思わず目を見開いて、その匂いの出所へ向かう。
「いーい匂い! フォリンちゃん、何作ってるの?」
「えーと……オムレツ、でしたっけ? トリの卵を焼いたのって」
「うん、うん、あってる! あってるわよー」
フォリンの肩越しに、焼かれていく卵を眺めるミリア。じゅうじゅうと音を立て、良い香りを部屋中に広げていくそれは、かつて人間達が好んで食していた料理だった。今、人間はほとんど家畜と呼べる存在を持たない。フォリンの生活を支える食料は主に狩猟によるものに由来しているし、今いる老人達はフォリンと同様の食物を口にすることが難しくなっている。早い話が、家畜を持つ必要性は至極薄いのだ。
「それにしても、よく卵なんて三つもあったわね。ここ三十年くらいあんまり採れないって聞いたのに」
「今日はミリアさんとマルクさんもいるから、ご馳走にしたいなって思って準備したんだ」
「朝から豪勢で嬉しいわ! ありがと~!」
ミリアが歓声を上げている横で、フォリンは手際よくオムレツを皿に盛っていた。三人分の朝食が完成しようというところで、彼女はミリアに声をかける。
「ミリアさん。マルクさん呼んできてくれますか? 多分いつもの所にいると思うんですけど」
「ええ、わかったわ。冷めちゃうと美味しくなくなっちゃうもんね」
フォリンが言うが早いか、ミリアは部屋の隅に立てかけていた杖を手に取り、庭に面した大きな窓から外へ出た。朝露が靴を濡らし、朝日がそれを煌めかせる。ミリアが杖を大地にこん、と突き立てると、色素の薄い長髪が重力から解放されてふわりと広がった。
「それいけーっ!」
かけ声と共につま先で地面を蹴ると、ミリアの身体はあっという間に宙に浮かび上がった。その様はまるで飛び立つトリのようで、あっという間に天高く飛翔する。
上昇が止まった時、ミリアの視界は王都の全てを見渡せるまでに広がっていた。全ての屋根と塔の切っ先は、彼女の足の裏よりも下にある。
「えーっと、城塞で一番高いところは……」
「かつては北だったが、今は東だな」
「そうそう! ……って、兄さん戻ってたの? それなら、呼びに来なくても良かったじゃない」
「お前が飛び上がった姿が見えたから来たんだ。そういう言い方をするんじゃ無い」
廃墟の上に、二人の杜人が朝日を浴びながら浮かんでいる。その様はかつての世であれば目にした誰かが絵画として遺していたかもしれないが、既に芸術家といえる人物は死に絶えてしまっている。
「あっ、本題を伝えなきゃ。フォリンちゃんが朝ご飯作ってくれてね。もうできるから兄さん呼んで来てって」
「そうか。じゃあ、急いで戻らないとな」
すっ、とマルクの頭がミリアの腰の高さまで下がる。そのまま降りて行こうとしていたマルクだったが、ミリアの「ねぇ」という言葉で下降するのをやめた。
「何だ、どうした?」
「いやね、ちょっと聞きたいことがあって」
珍しい、と顔に書いてあるような表情で、マルクが振り向く。隻眼の瞬きの回数が、普段より目に見えて多かった。兄の顔が見えるようになったことを確認し、ミリアは言葉を続ける。
「卵って、トリの子供よね? それを見て、『あれっ?』って思ってさ」
「……質問がしたいのなら、簡潔に言え」
ぐるりぐるりと巡る話し方を気にして、簡潔に述べよと釘を刺す。ミリアは肩をすくめつつ、自分の考えを頭の中で整理する。ふわ、ふわ、ふわ、と。ミリアの髪が数度上下した頃、彼女は再び口を開いた。
「いやね? 人間ってどうやって殖えるんだっけーって思ったんだけど」
ミリアの言葉を聞いて、マルクの眉が大きく跳ね上がった。彼にしては珍しい、驚愕の表情。隻眼がこれでもかと大きく見開かれ、やがて、口もふるふると開いていく。
「お、お、お前っ……そんなことも知らずに、今まで人間に関わっていたのか……!?」
眼下から見上げてくる兄の顔。珍しい表情を面白がっている場合では無い様子であることは、流石のミリアにも理解できた。マルクの顔は信じられないモノを見るような目そのもので、今この瞬間、ミリアは兄にとって”どうしようもないナニカ”であることを確信していたのである。
「あ、あはっ……前に聞いたような気はするんだけどー……忘れちゃった」
「忘れちゃったで済むかっ、ばかっ!」
滅多に聞かないマルクの罵声――優しい彼は、これ以上の罵声を口にできない――を前に、ミリアは思わず空中で飛び退いた。元々適当な術式の元で大気中を泳いでいた長髪が、更に奔放に広がる。
「こういった仕組みは、知性ある生物にとって大切なものであるというのにっ……これだからお前はっ」
距離を取ったはずなのに、一瞬で自分の目の前に、目線の高さを合わせて現れる兄。口ぶりからしてちょっとした説教では済まないことを悟ったミリアは、目の前の兄から逃げ出すことを心に決めた。
「ご……ご飯冷めちゃうから、私もう帰るわねっ! じゃーねっ!!」
「こ、こらっ、待て!」
マルクの制止も聞かず、ミリアの身体はぐんぐん大地へ向けて急降下していく。端から見れば、落下に近い光景だった。ミリアは髪とローブを靡かせながら、マルクを振り返ること無く叫ぶ。
「私は兄さんのこと、ちゃんと呼んだわーっ! 早く帰ってきてね! でも、楽しい朝ご飯の席でお説教はナシよーっ!!」
あっという間にミリアの姿は都と呼ぶには寂しい石の中に消え、張りのある我が儘な声のみが残る。その声が反響している中、マルクは何とも言えない表情で一人宙に浮かんでいた。
――自分の心を、ミリアの顔を見ても小言が口をつかないように落ち着けねば。
マルクはそんなことをしばし考え、やがて諦めたように溜め息を吐いた。そして、ミリアよりもずっとゆっくりと降下を始める。
「……後で、もう一度説明するべき……だろうな……」
屋根よりも高い場所で、誰にも聞こえない独り言を呟いた後。マルクは再び、深い溜め息を吐いたのだった。