プロローグ
陽光が遺跡のような街を静かに照らす朝。鳥はさえずらず、水の流れる音もしない。響くのは、たった一人の人間の声だけ。
「おーい、じいさん、ゼクトじいさーん」
ドアノックを叩きながら、家主の老爺の名を呼ぶ少女。一度、二度、三度。間を置いてみても返答は無い。彼女はむぅ、と腕組みをして少し考えると、肩に届く位の金色の髪をがしがしと掻き回し、溜め息をついた。
「……勝手に開けるよ」
少女はドアノック横の長方形を人差し指でつう、となぞった。すると、古ぼけた鉄の板がぼんやりと光を宿し始める。ふわりと広がる光に、彼女は手をかざす。
「墓守フォリンからのお願いよ。――妖精さん、力を貸して」
柔らかかった光が、唐突に眩く煌めく。一際大きく膨らんだ瞬間、それは星のように弾けた。弾け飛んだ星はすぅっとドアの鍵穴へと向かい、その小さな隙間の中を通って行く。カチャリ、と音がした。
「妖精さん、ありがとう。またね」
少女――フォリンがそう礼を述べ、鉄の板を先程と逆方向に指でなぞる。光が収まる様を見届けずに、彼女はドアの取っ手に手を掛けた。手に力を込めると、当然のようにドアは開く。
「ゼクトじいさん、フォリンだよ。入るよー」
念の為、玄関でフォリンが宣言をする。返答は無い。彼女は爪先をコンコンと床につけ、靴底の汚れを落とすと家の中へ足を進めた。台所、食卓、居間――軽く見たが、やはり誰もいない。彼女は諦めたように、一番奥にある寝室へ向かった。
コツ、コツ、とフォリンの足音だけが響く。辿り着いた寝室の扉を開けると、大きな窓から綺麗な陽の光が射し込んできた。家主の老爺は既に起床し、カーテンを開けたのか。それとも。
「あぁ……やっぱり、死んでたんだ」
ベッドの上を確認する。痩せこけて枯れ木のようになった老爺が、眠るようにして息を引き取っていた。穏やかな表情。苦しまずに逝けたのだろう。老爺の手を握りながら、フォリンは呟く。
「今日、朝ご飯一緒に食べようって約束したのに」
思い出すのは昨日のこと。フォリンと老爺は明日の約束をしていた。老爺は、美味しいお茶があるから一緒に飲もうとフォリンを誘った。フォリンは、森で採ったグルネをジャムにしてもらった話をした。朝食にぴったりの組み合わせだ、と老爺が言うものだから、次の日にでも一緒に食べようとフォリンが提案したのである。パンにグルネのジャム、ペルアのお茶に、シュカのソテー。フォリンはそんな朝食を楽しみに、老爺の元を訪れたのだが。
「……じいさんの嘘吐き」
手を握る力が、より一層強くなる。しかし、どれだけフォリンが老爺の手を強く握っても、冷たく硬い手は微動だにしなかった。
◆
静かな石畳の小道を、フォリンはゆっくりと歩く。朽ちかけた石造りの建物が小道の両脇に聳え立っており、その影のお陰で今の季節でも快適に移動ができる。何の役に立たない廃墟でも、日除けくらいにはなるのだ。殆どの建物が主人を失い朽ちていようと、頑強な石は変わらずそこにある。形を僅かに残し、色褪せながらも、まだ朽ちてはいないのだ。
そう、この街は。かつての王都は、最早廃墟を通り越し、遺跡となりかけている。
ほんの数百年前まで、この世界で人間は最も多くの人口を誇る人型知的生命体であった。森の中に住まう杜人、この世界のあらゆる場所に存在する妖精……そうした他の種族よりも、ずっと多く存在していたはずの彼ら。それがある出来事を機に急速に数を減らし、衰退の一途を辿ったのだ。
王都には、昨日まで六十八人の人間が暮らしていた。それが、今朝のある老爺の死により六十七人となった。人間という種は、また一歩"絶滅"へと近付いた。
王都の中央、かつての城の中庭に到着すると、その中心部にある噴水にフォリンは腰掛けた。噴水、とはいっても既にその機能は失われ、水は溜まってすらいない。彼女は静かな世界を、ぼんやりと眺めていた。
もう、昼時だ。だというのに、誰も外へ出てこない。この国の殆どを占める住人は老人であるが故に、外出する体力も、気力も無いのだ。無論、絶滅へと向かう自分達人間という種族に対する諦観も一因ではあるだろうが。
「……久し振りに、仕事しなきゃなぁ」
フォリンの、年若い少女の声だけが、死んだ王都に響く。彼女は城の裏手を目指し、歩き出す。元気に伸びる裏庭の草を見て、また草むしりをする必要があるな、と心の内で思った。
正門から見ておよそ正反対の位置に辿り着く。そこには、黒々とした大きく不可思議な門が聳え立っていた。形状は確かに門であるのに、それは独立して建っていた。門の左右に壁はなく、簡単に回りこめるという"門の意味をなさない門"。言うなれば、額に入れられた巨大な絵画が直立している様に似ている。物々しい装飾は門の前面のみならず背面にも施されており、どちらも甲乙付けがたい程に禍々しい。
フォリンは門の前面に立つと、門の中心に手のひらで触れた。柔らかな光が広がり、彼女を照らす。青緑色の光がその金髪を輝かせ、青い瞳にもまたより強い光を与える。彼女は深呼吸すると、今朝も口にしたばかりの言葉を再び呟いた。
「墓守フォリンからのお願いよ。――妖精さん、力を貸して」
その瞬間、門全体が強い光を帯びた。フォリンは言葉を続ける。
「ゼクト・シュタインの魂を、同胞が集積されし匣へ。ゼクト・シュタインの肉体を、王都の地へ」
フォリンの言葉が終わった瞬間、門の中心で弾けた光が街の方向へと飛んで行く。その光はやがて、子供の笑い声のような音を纏いながら門へ――出発点へと帰ってくる。それを待っていたと言わんばかりに、門はゆっくりと開き始めた。開いた門へと飛び込んで行く光の筋を見つめながら、彼女は呟く。
「いってらっしゃい、ゼクトじいさん」
全ての光が門の中へと収まると、今度はひとりでに門が閉じて行く。閉じた門に再び触れたさながら、フォリンはまた呟いた。
「妖精さん、ありがとう。またね」
一仕事終えたフォリンは、門に背を向け、空を見上げた。赤味がかってきた空が、夕刻を告げている。じきに夜が来る。暗くなる前に家路に着かなければ、と思いながら彼女は早足で城を後にした。
――この世界に残された人間はあと、六十七人。
――この世界で最も年若い人間の少女は、絶滅を俯瞰する。