笛吹き
「……起床時刻だ」
やがて曲が終わり、笛吹き男がぼそりと呟いて我に返る。
「牢獄で時報代わりに鎮魂歌だなんて、なんともいえない気遣いね?」
ローブの男は怪訝そうに眉を顰めるので、ミーシャも眉を寄せる。
「なに? 鎮魂歌だって知らなかったの?」
笛吹き男はぷいと顔を逸らしただけで返事もしないが、多分そうなのだろうと思えた。
その横顔はミーシャと同じくらいかそれよりも若く、少年といってもいいような年頃に見えたが、再びローブを目深に被り、猫のように細めた目で詰所を見つめているとよくわからなくなる。
ミーシャの中には「どこでそれを覚えたのだろう?」「もしかして自分と同じような境遇に育ったのだろうか?」といった疑問が浮かんだのだが、あの様子では聞いても答えなさそうだと諦め、代わりに別の質問を投げた。
「あなた、名前なんて言うの?」
男は無言で笛をローブの中に片づけるだけだった。
「ちょっと、この私が名前を聞いてるっていうのになんなのその態度は!!」
「――……名前、」
いい加減に我慢の限界で怒りが沸騰しそうになる寸前でぼそりと男が呟いたので、差し水をしたように一時噴火が収まる。が。
「覚えてない」
くわぁぁあんっ! と、小気味のいい音を立てて錫の皿が男の頭に命中する。もちろん、投げたのはミーシャだ。
「これで、思い出した?」
それは底冷えのしそうな声だった。
「ふざけたこと言ってると今度はこれ投げるわよ。自分の名前を覚えてない人なんか、いるわけないでしょうが!」
先の割れたスプーンを降りかぶるが、男は一瞥するだけで気にとめる様子がない。
(バカにして……!)
ミーシャは怒りに任せてスプーンを投げた。
昔ふざけて始めた投げナイフ――もちろん行儀が悪いと叱られたが――は、公園や街の広場で踊る時に客引きの芸として“どんなものでも踊りながら放ってリンゴに百発百中させられる”という演目にまで発展させた腕前だ。怒りのためさらにその精度はあがり、スプーンは寸分の狂い無く男の頭めがけて飛翔する。
そのスプーンが朝日を浴びてちかりと光った瞬間、頭に上っていた血がさっと引き、しまった、と思った。
精神的な病気とかで、本当に自分の名前が覚えられなかったりちゃんと会話できなかったりするのかもしれない。どうにも会話のテンポが遅くて噛み合わないし。もしそうじゃなくても、さすがにスプーンを頭に突き刺されなければならないほどのことじゃ――
「避け……」
避けて、とミーシャは悲鳴を上げそうになり、ローブの看守はまるで蝿でも追い払うような動きをした――。
「……………なっ」
驚愕で、一瞬思考が凍った。
からんと乾いた音がして、我に返る。
飛来していたはずのスプーンが、床に投げ捨てられていた。
(掴み止めて、投げ捨てた?)
理解が状況に追いつくと、血の気とともに引いていた怒りが、取り乱した恥ずかしさを上乗せしてさらに3倍になって戻ってきた。
「なんで大人しく刺されないのよ!」
「怪我したくない」
一瞬の狼狽の反動で思わず毒吐くと、笛吹看守はぼそりと答えた。
(まともなテンポで会話できるんじゃないのよ――ッ!!)
無性に腹が立ってきたミーシャは様々な文句が一度に沸き上がって、どれから言ってやればいいのか喉に詰まらせてしまった。
「勘弁してくれ、嬢ちゃん。こいつ本当になんにも覚えてないんだから」
うるさいなと顔にくっきり書いてある髭看守が頭を掻きながら詰所から出てきて、宥めるように間に入った。
「一月ほど前に街の警官が処遇に困っててな、しょうがねぇから俺の手伝いをさせてやってんのさ」
ミーシャはあからさまな疑いのまなざしをふたりに投げるが、ローブの看守は沈黙を守り、髭看守は大げさに肩を竦めた。
「便宜が悪いんで、俺は笛吹って呼んでるが」
「……ふぅん? じゃあその笛は?」
笛吹男は相変わらず答えず、髭看守が苦笑いを浮かべる。
「あれが唯一の持ち物だったのさ。試しに吹いてみたらまぁ体が覚えてたってとこ――」
「やぁ、ダグ。ご苦労だね」
唐突に声がして、髭看守が軽く飛び跳ねたように見えた。
「ルーファス坊ちゃま、わざわざこんなところにいらっしゃるなんてどうなさったんで?」
彼が驚愕の声を向けた先に現れたのは、品のいい白のコートに癖のある金髪の青年――昨夜ミーシャをここに投獄した張本人であるテオドールにそっくりの青年だった。
ミーシャは一瞬昨夜のテオドール坊ちゃまかと身構えたが、髭看守の言を信用するなら違うらしい。確かに居丈高なテオドールと人懐っこそうな笑みを浮かべる彼は、顔のつくりは同じでも、同一人物とは思えないほど雰囲気の隔たりがあった。
(双子? 兄弟? ……なんにしろ、絶対身内よね)
ミーシャはそっと奥歯を噛みしめながら、ルーファス坊ちゃまと呼ばれた男を注意深く見つめる。
「悪いんだけど大至急、昨夜のお嬢さんの保釈手続きをしてくれないかな?」
にっこりと笑ったルーファスと目を丸めている髭看守は、ミーシャが手を叩いて大喜びするような空気ではなかった。笑っているのになぜか背筋がひやりとする奇妙な違和感が、その男にはあった。
だからミーシャはただ黙って口を引き結び、ふたりのやりとりを見守った。