追憶
満月が、明かり取りの窓から見えた。
ミーシャは薄い毛布にくるまりながらそれを見上げていた。
それ以外に、なにもできることがなかったから。
鉄格子にへばりついていくら文句を言ってみても、黒ローブの看守はピクリとも反応しないばかりか、他の牢にいる野卑な男どもが女の声がすると騒ぎ出して卑猥な言葉が飛び交う始末。ローブの看守が一巡すると静かになったが、ミーシャも今は叫ぶだけ無駄だと悟りおとなしく機を伺うことにした。
肌の露出の多い踊子の衣装のままでは毛布一枚では肌寒くて、身震いが出る。せめて少しでも体温を脱がさないように膝を抱えて体を縮め、やりすごそうと努力する。
「寒い」の一言も泣き言みたいで絶対に言いたくなかった。
(こんなところで立ち止まってるわけにはいかないのに……)
ちらりと看守の様子を伺うと、相変わらず黒ローブの男がすべての牢を見渡せる位置に置かれた椅子に腰掛け、飽きもせずにひたすら監視している。エメラルドのような深い色の瞳が薄闇を睨む姿はまるで黒猫のようだ。
ふぅ、と、かすかな溜息が漏れる。
途端、まなうらに燃え盛る孤児院がちらりとよぎり、焦燥がつのって膝に顔を埋める。
(……神父様、必ず、見つけるから……)
決意を胸に秘め膝を抱えた腕に力を込める。
これからどういった処分を受けるのか見当がつかないが、長居するわけにはいかなかった。
あの火災からもうじき一年が経ってしまう。
火災や津波などで被災して行方不明になった場合、一年経過すると生存の可能性はないと判断され、死亡したものとして様々な手続きが取られることになる。
クロード神父はエトナ村の土着の人間ではなく、親兄弟といった血縁はおろか遠縁もいないのだ。昔ミーシャが血縁者はどこかにいないのかと尋ねた時、彼は静かに笑って「いません」と答えた。「この村にも近隣の村にも――シチリア島内にも、国内にも、いません。しかしこの孤児院は私の家であり、君たちは私の家族ですよ」と、そう言った。
だから、法的な手続きは親族に代わって役人がすべて事務的にすすめてしまうはずだ。
(絶対、生きてる。だって、死体はひとつも出なかった……)
だからミーシャはそんな手続きがとられる前にクロード神父を捜し出さなければならないと心に決めたのだ。
決意を新たに胸に刻み、ミーシャは鉄格子を睨んで思考を巡らせる。
(もし保釈が可能なら――保釈金は貯めてた公演料でなんとかなる。保証人もノエルさんに連絡を取れば苦笑いで引き受けてくれるハズ……)
考えていると、ふつふつと怒りが沸き上がる。
こうして勾留されているだけでも腑煮えくり返るのに、そういった手続きをして出してもらうというのは、どう考えても釈然としない。
時間があるなら無実を訴えて裁判を提起したいくらいだが。
(――彼らが法律……)
商人が法律とは嘆かわしいが、事実こうして勾留されているからには、ただの脅しとも思えない。ならば、思い出すだけでぞっとするがあの坊ちゃまにおもねる必要があるのだろうか?
(死ぬっほど嫌だけど。嫌だなんて言っている場合じゃ、ないのかしら――……?)
目眩がするほど高くまで澄み渡る青い空に、聖歌と教会の鐘の音が鳴り響いていた。
日に灼けた青い三角屋根と、その上に質素な十字架を掲げた教会の、中庭。その隅っこの茂みに隠れて、ミーシャは泥とすり傷だらけで泣いていた。
――あれは、何年前だったかな……?
古い記憶だ。おそらくミーシャが10になったかどうかという頃。
「今日はまた派手に暴れましたね」
頭を撫でる大きなてのひらと苦笑混じりの優しい声が降ってきたけれども、すんと鼻をすするだけで顔を上げることはできなかった。
ミーシャは小さい頃から孤児を馬鹿にする村の子供に食ってかかってはノエル夫人に怒られていた。
あの日は確か、教会の前で寄付を募るために孤児院の子達が揃って歌を披露していたら、仲間の一人に「いくらだ?」と絡んできた酔っぱらいがいたのだ。言葉の意味はわからなかったが、それでも男の笑みが不快で、その子は怯えていた。だからミーシャは男に飛びかかり、そして騒ぎに気づいたクロード神父が取りなして酔っぱらいをどこかに連れていくまで、手をあげられようと絶対に引かなかった。
酔っぱらいとはいえ大人の男に力ではかなわない――その現実だけでも悔しいのに、さらにノエル夫人にこってりと叱られたミーシャは、この中庭の隅に隠れて悔し涙を流していたのだった。
「誰かを守るために立ち向かう君の優しさも強さも、とても尊いものですよ」
びくりと肩が震えてしまう。
「女の子が取っ組み合いの喧嘩は、確かに褒められたものではありませんが」
穏やかでかすかな笑い声が降ってきて、くしゃくしゃと髪を撫で回される。
「ミーシャのかわいい顔に傷がついたらもったいないですし」
珍しい軽口はきっと答えやすいようにと配慮したものだと幼心にもわかったし、何か言わなければと思ったけれども、なにも言葉が出てこなかった。
「うまく立ち回ったり我慢することで争いを避けることもできます。ノエル夫人の言うとおり、そういう手段を覚えることも大事です」
せっかく止まっていた涙がもう一度溢れてきそうで、ぎゅっと目を閉じて堪えた。
「……けれどね、ミーシャ」
神父はわずかに迷って口を引き結んだ。
「私はそうやって真正面から立ち向かう君の姿が好きですよ」
どきりとして反射的に振り返ると、彼の背中にある太陽が泣きはらした目を刺した。
「卑屈になることはない。君が正しいと思うなら、必要だと思うなら、戦いなさい」
身を屈めてぎゅっと抱き寄せてくれて、長い白髪が肩から滑り落ちてミーシャの頬を撫でた。彼は当時三十台、若白髪と言うにはあまりにも完全で元の髪色がわからない白髪が目を引く人だったのだ。ミーシャはその手入れされたきれいな白髪が好きで、くすぐったくて、柔らかい気持ちでそっと目を閉じた。こういうことを言ったと知れると叱られてしまうので内緒ですよと苦笑いで口止めした神父の声に、素直に耳を傾ける。
「君はその優しさと強さでみんなを守ってください」
ミーシャの髪を優しく梳きながら、いつもと同じ穏やかな声で諭される。
どことなく、不安になった。
嵐がくる前の凪いだ海に小舟で浮かんでいるような不安。
「神父様、どこかに行っちゃうの?」
優しくて穏やかであたたかくて、父でもあり兄でもあるような、大好きな神父様――彼がいなくなることほど怖いことなどなかった。
涙を拭いて恐々と問いかけると、彼は苦い笑顔を広げた。
「……いいえ、新しい子の迎えなどで私がいない時の話です」
なんとなく不安なまま神父を見上げ続けてしまう。すると、彼はミーシャの肩に額を押しつけるようにして力強く抱きしめた。
「ミーシャ、誇り高く生きなさい。誰より強く優しく、気高く――」
聞こえ続ける聖歌の旋律が、切ないほど美しくて、神父の腕に力がこもって、胸が詰まりそうだった。
そう、あの失踪から後に思い出してみると、クロード神父はいつかどこか手の届かないところに行ってしまうのではと、あの頃から何度も不安になっていたのだ。
(――……はい、神父様)
返事をしたつもりだったが、唇が動かなかった。
違和感に気づいてうっすらと目を開けると、そこにあるのは冷たい石畳の床で、現実を思い出す。いつの間にかうとうとして昔の夢を見ていたようだ。
なのに、聖歌の旋律が流れ続けている。
不思議に思って見回し――思わず、息を呑んだ。
教会にあるフレスコ画のように清浄な朝の光が差し込む牢獄の回廊には、目にかかりそうな漆黒の髪の下、猫のように切れ長の目を伏せて小さな笛を吹く男がいた。
あの黒ローブの看守だと気づくまでに、ワンフレーズが終わっていた。深く被っていたローブを取って顕わになった男の顔立ちが意外と端正だったからよけいに絵画のように見えたのかもしれない。
死神みたいな薄汚れたローブの小男が神聖に輝いて見えるほど、心が打ち震えるほどの美しい音色は硬質で、不可侵の神聖さを思わせる。
そして清浄な朝の空へと溶けていく高く澄んだ音色が奏でる旋律は――鎮魂歌だった。
※このお話内の法律関係の記述は資料が見つからなかったので現代日本を適当にアレンジして設定しております。歴史物としてはなんちゃってなのでそこらへんはご了承ください。
良い資料などご存知の方は後学のため教えていただけると幸いです。