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一歩



「あなた、なんでこんなところに来たのよ? 私は解雇するって言ったわよ」


 おそらく彼の身を案じているのだろうミーシャが心ならずも暴言を吐き、リカードは冷ややかな視線を投げた。


「……お前、素直に礼くらい言えないのか」

「頼んでないもの」


 いかに謝辞を期待していなかったにしても一瞬愕然とせずにはいられない台詞を堂々と吐かれたリカードは苛立たしげにゆっくりと息をついた。

 そして、ぼそりと呟く。


「…………かわいげのない女」

「ふっ―――」


 それを聞き流すことができずにクロードは吹いた。


「あははは! 君が、女の子をかわいいと思うようになるとはね……!」


 意表を突かれたクロードが声をあげて笑ってしまうと、ミーシャはぽかんとし、リカードは眉を顰めた。

 笑いを納めようと思うのだけれど、笑ってはいけないと思えば思うほどに笑いがこみ上げて、腹が捩れそうだった。


「おい、何を聞いてたんだ。かわいげがないって言っただろ!」


 声を荒げたことなど十年で一度もなかった氷の面が、怒りにか羞恥にか赤く染まり、ムキになっているのがおかしくて、そんな状況ではないのに、さらに笑いが止まらなくなっていく。


「俺はクロードを助けにきたんだ。お前なんかついでだからな!」


 毛を逆立てた黒猫が、ぽかんとしているミーシャを威嚇する。本物の猫だったら狸みたいな尻尾になっていそうで、かわいらしくておかしくて。


「悪いけど君、ちょっと黙っててくれませんか?」


 腹が痙攣しすぎて痛いし、息を吸えなくて苦しい。

 痛みにはある程度慣れているクロードだが、耐性のない種類の拷問にでもかけられているようで、神様助けてと人生最大級の切実さで祈る。






「は―――……死ぬかと思いました……」


 おそらくは人生最大の爆笑を最後に咳払いをして納め、クロードは仕切り直した。


「……さすがミーシャですね」


 クロードはぽんぽんとミーシャの頭を撫でた。

 常闇すら明るく照らす灼熱の太陽は、万年氷をもたやすく溶かしてしまうらしい。折を見て引き合わせることができれば面白そうだとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。


「――神の慈悲に、感謝を」


 無意識に胸に手を当てたクロードは、そんな言葉をこぼしていた。

 おそらくは生まれてはじめて、心から神に感謝した。

 彼を救ってくれたのみならず、彼らを巡り会わせた――こんな奇跡を、神以外の何者が起こせるだろうか、と。


「神ってのは放火犯にも慈悲を垂れるんだな」


 しかしリカードはふんと自嘲気味に鼻を鳴らし、ミーシャは息を詰めてそれを見つめた。


「よかったな、クロードと放火犯が両方見つかって」


 リカードは鍵の束からひとつの鍵を選び出して鍵穴に差し入れ、回しながらぼそりと呟く。その声には嘲りが色濃かった。

 ミーシャは助けを求めるようにクロードを見上げてくるので、曖昧に笑うことしかできない。

 潔癖のミーシャのことだ。放火犯に怒り心頭、懲らしめなければ気が済まないと考えていただろう。けれど黒幕がクロードだった時点で、既にその怒りの矛先をどこに向けていいのか迷っているに違いない。

 ミーシャが俯いているうちにも、錆びた格子戸が開け放たれる。それから足枷の鍵がざりっと錆を削る音を立てて開くと、リカードはクロードとミーシャに背を向けた。


「考えるのは後にしろ」


 確かに、屋敷内には警官に取り囲まれて気が立っている双子の手下がひしめいているだろう。他のことを考える余裕はない。

 クロードは一度目を閉じてゆっくりと息を吐いた。それから、しっかりとリカードを見据える。


「……そうですね。ありがとうございます、リカード君。それから笑ってすみませんでしたね。昔、君によく似た知り合いがいたものですから、人違いをしてしまったようです」


 リカードがくるりと猫のように目を丸めて振り返った。そして次に胡散臭そうに眉をひそめる。


「彼はルーファスに殺されてしまったから、もうこの世にいるはずがないというのにね……」


 静かに言い含めると、リカードはちらりとミーシャの様子を伺った。

 ミーシャはそれまで複雑な気持ちをもてあまして床を睨んでいたが、やがて深く息を吐く。


「……リカード、ありがとう」


 床に向かってそう呟くと、気持ちを切り替えるようにぱちんと手を打って顔を上げる。


「さ! みんなが心配してるだろうし。さっさとこんな陰気な場所から出て行きましょう、神父様」


 眩しいほどの笑顔でミーシャはクロードの手を引き、足を踏み出した。その途端、足に鎖が絡みついたように重くなる。


「……ミーシャ」

「はい?」


 踏みとどまったクロードの様子を心配するようにミーシャが振り向くと、胸にずきりと痛みが走り、身が竦むようだった。

 眩しかった。痛いほどに。

 闇の中で生きてきたクロードにとって、燦々と輝く純然たる無垢な光の下の世界は観光旅行のようなものだ。しかも仮面がなくては行けない場所なのに、司祭の面はもう使えない。


「……私は、本来神父と呼ばれる資格を持ち合わせてはいません」


 あの子は生まれ変わることができる。

 あの日……一家を裏切って初めて見た朝日に目を細めはしたけれど、しっかりと世界を見つめた、あの子ならば。


「私は――」

「じゃあクロードって呼んでもいいの?」


 ミーシャは屈託のない満面の笑顔で言う。


「あ、でも名前で呼ぶの、お嫁さんになってからにしたいからしばらくは神父様じゃダメかしらね?」


 眩暈がして天地がひっくり返るかと錯覚し、咄嗟に目元を覆った。と、ミーシャがその手を取る。


「本物の司祭じゃないなら、問題ないんでしょう?」

「いえ、他の問題がいろいろと山積して……」


 そこで目が合って、思わずそれ以上の言葉を呑んだ。


「……待ってるから」


 強い、決意の目だった。


「ちゃんと他の問題も片付くまで、待ってるから」


 眩しくて、見ていられなくて。

 昔よくそうしたように、強く抱き寄せた。


「――全部片付けると、君、老婆になってしまうかもしれませんよ?」

「それでも私は待ってる。あの孤児院を再建して待ってる。だから戻ってきて」


 抱き返してくれる力強さに、喉が震えて痛みが走り、しばらく声が出なかった。



「……父を待つ気で、待っててください」


 震える喉を押さえつけて、苦笑いでそう言いながら、クロードは思う。


 やっぱり私には聖職者の才能はない。

 到底、無欲になれそうにはない、と。






「閉めるぞ」


 ノビている双子を牢に運び込んで足枷の鍵をかけたリカードが牢の外で苛立たしげに鍵をチャリチャリと揺らした。


「……行きましょう」


 クロードはミーシャの肩を借り、重い足を引きずるようにして一歩前へと踏み出した。



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