夜明け前
屋敷の間取りを大まかに説明し終え、互いにぽつぽつとこれまでの――クロードは当たり障りのない範囲で、だが――話をしたりして、どのくらいの時間が経ったのだろうか? 一条の光も射さず、地上の生活音も聞こえない牢獄では判断の材料になるものはほとんどない。ただ身についた感覚だけが頼りだった。それでもクロードはおそらく夜が明ける頃だと判じた。
苛立たしげな足音が複数とテオドールとルーファスが言い争う声が響いてきた。クロードは名残を惜しむようにそっとミーシャを抱き寄せながら、聞こえてくる声に息を潜めて耳を澄ます。
「テオが余計なことをしたせいですからね!」
「お前もあいつに公演を許可したんだから同じことだろうが!」
「公演だけならこんなことになってませんよ! テオが舞台に踏み込んだりするから奴らに確信を抱かせたんでしょう。そもそも、衆目のある舞台上で連れ去ろうとするとか、そういうスマートじゃないやり方が問題なんですよ!!」
「街の人間に威厳を示すのも大事だ。そうやって諂って裏でこそこそと卑怯な謀略を巡らせるお前のやり方で我がフォート家への畏怖が薄れ、舐められたからこんなことになったんだろう!!」
「ふふん、おかげでテオはみっともなく小娘に踊らされるところを披露したんですよね?」
「なんだと……っ!!」
「それだけなら笑って許してあげるところですけど、挙げ句がこの状況ですからね。責任は取ってもらいますよ?」
「だから、責任はお前にあるんだろうが!!」
牢の前まで同じようなことを繰り返し言い争いながらやってきた双子がそろってミーシャに凍るような冷徹な視線を投げ、クロードは親鳥のようにミーシャを抱えて身構える。
「ミーシャさん……あなたを甘く見てました。飼い犬が一匹じゃなかったとは、さすがはクロードの愛娘です」
「これ見よがしの護衛は目くらましか!!」
静かな笑みの裏で腹の底が煮えくり返っていることが明らかなルーファスと、鉄格子があってよかったと思えるほどの剣幕で吠え立てるテオドール。一体何が起きたのか釈然としないクロードが眉を顰める。
「ミーシャさんのファンを称する人たちが大勢で屋敷を包囲してるんです。内密に消えていただくには骨の折れる人数ですし、あの中に警察関係者が混ざっていたらただでさえ近隣の警官隊に召集の動きがあるというのに、拍車が掛かることは必然――」
ちらちらとテオドールを睨みながらあてこするルーファス。その剣幕にクロードが腕の中のミーシャに視線を落としたが、彼女はふっと気丈な笑みをこぼした。
「……言ったじゃない? 熱狂的なファンに追い回されて困ってるって」
ミーシャが助けを呼んだらしいことは理解したが、それにしても双子がそれぞれに見張りをつけていたはずだ。その二重の監視を掻い潜り、彼らに悟られずにどんな方法で助けを呼んだのだろうかとクロードが思案を巡らせようとすると、ミーシャは猫のようにちろりと舌を出して見せた。
「公演の最後にいつも腕輪とか投げるでしょう? あれに『助けて』って書いておいたのよ」
「……あぁ、なるほど」
クロードの脳裏に一人の男が浮かび、笑みがこぼれるのを禁じ得なかった。
(おそらくは、クリゾリート……あの男……)
放火事件の前から孤児院の周辺を嗅ぎ回っているから素性を調べたら軍警察関係者だった、あの男。休暇の楽しみに公演を見に来ているだけだと言い張ってはいたが、やはり。
彼ならばこの騒ぎを機にフォートの屋敷の家宅捜索に踏み出すかもしれない。――それも、証拠を消される前に、早急に。
首領は尻尾を切ろうとするだろうが、血判状があれば一家を叩くこともできる。
(札を切るにはこれ以上ない好機だが……)
しかしこの囚われた身では肝心の札の切りようがない――と思考を巡らせようとした時、ミーシャがテオドールに笑みを向ける気配がしてクロードは全神経を目の前へと向けた。
「想像以上の対応の早さはあなたが舞台に踏み込んでくれたおかげかしら」
「ああ、やっぱりそう思います? 思いますよねぇ?」
「そもそも舞台まで泳がせるべきじゃなかったんだ。拘留所から直接屋敷に連れてくればよかったものを、ルーが釈放したせいだ!」
「テオのおかげで屋敷の出入りは見張られて動けないし、家宅捜索も時間の問題なんですよ? 父上にどう釈明するつもりです?」
ルーファスが侮蔑を込めて言い捨て、追いつめられたテオドールは猪のように眉間に深い皺を刻んだ。
「あの女を返してやってあれはただの冗談だったと証言させればいいだろう。クロードさえ押さえておけば下手なことは――……っぐ!?」
唐突に言葉が途切れ、続いて土嚢を乱暴に落としたような音がふたつ重なった。
薄暗闇に溶けるように輪郭の曖昧な黒い影が、倒れた双子の脇に屈み込んだ。何人もいるはずの双子の護衛は、どこにもいないように静かだ。クロードが目を凝らせば、いつの間に現れたのか通路のあちこちに黒い塊が落ちているのが見えた。
小柄な影がルーファスのポケットから牢の鍵を探し出し、音もなく寄ってくる。
人影の姿形が視認できると――クロードは思わず喉を詰まらせた。
幽霊でも見ているのではないかと疑い、そうだとしたら見捨てた私を恨んで仕返しにきたのかと、まずはそう思った。
「リカード?」
けれど腕の中で息を呑んだミーシャが声を掛け、馬鹿げた思考を現実の奥に押し込む。
「……リカード?」
喉が張り付きそうなほど乾いていて、すぐには声が出なかった。なんとか息をのみこんでから問うと、ミーシャはこくんと頷いた。
「ええ、今朝雇って夕方解雇した護衛なの。一月前に記憶を無くして倒れてたって言うから、私が命名してあげたんだけど」
(あぁ……)
クロードは瞑目し、低く呻いた。
考えうる全ての暴行を受けながらも、苦痛以外の表情は一切面に出さなかった彼の姿が生々しく脳裏に蘇ったから。
(……生きて、いたのか……)
地獄から振り仰いだ空に、天使が舞っているのを見たような気分だった。
もちろん目を開けたそこには、絶望的な闇に呑まれた天井しかなかったけれど。




