平穏
「おにーちゃん、トイレどこだっけー」
「だっけー」
「……母さん、ミサキとネオン、トイレにつれてく」
「うん、リクくん、お願いね」
首に巻きついていた双子ちゃんは、メガネくんについていく。
三人を見送った年若い母親は、内に巻いたショートの髪を栗色に染めた、快活そうな女だ。彼女は突然エクザイルを歌い出す。ザギャラクシエクスプレススリーナイン、ウィテクユオンアジャーニ、アネバエンディングジャーニ。未だ青年の腕の中の童女が体を上機嫌に揺らしながら続く。じゃーにぃいいいぃいんざすかーあーい! 叫び腕から飛び出して母の元へ駆け出した。息ぴったりである。それは違う銀河鉄道だが、青年はあえては突っ込まない。
彼女は娘と一緒に、這うように青年に寄っていって、クリクリした目を上目に使いながら、声をかける。
「やーやー春日クン、いーつもすみませんねえ。ほらウシオちゃんも、ご本におにーさんにお礼して」
「すみませんねえ」童女が続いた。
「いいえ、ナミネさん、ウシオさん」
大学生くらいに見えるが、これでも五児の母である。メガネのリクくんと、双子のミサキちゃんネオンちゃんと、おチビのウシオちゃんと、それからもう一人。
「あの、いつも本当にありがとうございます…」
気の弱そうな少女が、おずおずと進み出て、几帳面に正座した。気恥ずかしそうに小柄な体を捩る度、緩く編んで右肩から垂らした三つ編みが揺れる。べっこう縁のメガネの奥から、垂れがちの大きな目で見上げてくる。歳の頃は、十二か三か。
「ナギサさん。どういたしまして」
「いえ……春日さんの声、ほんとにすごくって……、わたしが読んでも、ウシオちゃんは途中であきちゃうから、その、コツとかあるんですか?」
「コツ、ですか」
彼は少しだけ間をおいた。透明な視線に、ナギサはドギマギする。
「一節一節、一音一音、丁寧に読むことです」
「そうなんですか……」
「参考になりますか」
「あ、はい! それで、銀河鉄道の夜、自分でも読んでみようかって思うんですけど、あ、もう閉まっちゃうかな……」
「閉館まで二十八分ありますが」
「あ、でも、場所、とか、わからないし…」
「場所。銀河鉄道の夜でしたら19 ― Lの書架です」
「え、と」
「ご案内しましょうか」
「いってらっしゃーい。あたしらここで待ってるから、ね?」
「ねー?」ナミネとウシオが唱和するのを聞き届けると、ナギサはもじもじと、
「あ、じゃあ…、お願いしても、いいですか…?」
「はい。行きましょう」
答えてから青年は、手を床についたまま昇降口まで這っていって、一番下の下足入れから自分の運動靴を取り出して履き、傍らに立つギラつく金属に伸ばした左手を、一瞬、中空で不自然に彷徨わせてから、その柄を握りこんだ。四つ足の、無骨な杖だ。
ぎこちなく、立ち上がる。
ナギサは自分の靴を履き終えてから彼の後ろに控えていた。
ふたりの去り際に、やたら元気な年若い母親は、ご本のおにーさんからポイント稼いできなさーい、と、妙な声援を送った。もう、おかーさんっ! とちょっと怒った風にナギサ。
「ポイント。なんの得点を稼ぐのですか」
「なんでもないですなんでもないです母の言うことは気にしないでくださいっ!」
二人、歩き出す。