語り部
「ああ、その大きな海はパシフィックというのではではなかったろうか……」
天窓から射し込む夕焼け。
茜色に染まる部屋に、朗々と響く声がある。
語っているのは青年だ。白いワイシャツに黒のジャケットを羽織った、童顔の男。十数人の子供に囲まれ、体を小さく折り畳むようにあぐらをかいて座り、さほど大きくはないが、不思議とよく通る声で物語る。しかしその手に本はない。まるでその場で自ら紡ぎ出すような自然さで暗唱するのは宮沢賢治の一節だった。
そこは図書館の一室だ。児童書コーナーの片隅に、土足を脱いで上がるスペースがある。
幼稚園の教室ほどの広さのあるそこは、絵本を読み聞かせたり、寝っ転がって、ひとやすみするための場所だ。
フレームレスのメガネをかけた利発そうな少年が正面に行儀よく座り、髪をそれぞれ右と左でまとめた、双子の小さな女の子が首に抱き付くみたいに両の肩口から顔を出し、一番小さな少女などは、あぐらをかく青年のその上にちょこんと座り、腕にすっぽり収まっている。
ジョバンニは思う。
「その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、激しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。
ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。
ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう……」
言葉を十分に解さない歳の子供や、後ろで見守る父母までが息を呑み、青年の語りに聞き入っている。言語ではなく、彼の声そのものに、聞く者の心の奥深くに染み入ろうとする意思が宿っているかのよう。この瞬間、確かに聴衆は銀河鉄道の中にあり、北の果てに広がる見知らぬ海洋に想いを馳せていた。
塞ぎこむジョバンニは、灯台守の慰めを聞いた。
「なにがしあわせかわからないです。
ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから……」
図書館の一室に、奇妙な静謐が横たわる。
緊張が最高潮に達し、青年は異世界を立ち上げるべく呼気を吸い込む。
けれど続く言葉は、ブツン、というノイズに、遮られた。
ミーソソー、ミーレドー、レ―ミソーミレー。
館内のスピーカーから流れ落ちる音階に、部屋の空気がふっと緩んだ。
同じ音は街中のスピーカーから同時に流れているはずで、それは市が定める四時半の時報であり、もう三十分で映晴市立中央図書館が閉館になることを意味しており、この図書館の風物詩になりつつある青年の朗読劇の終演だった。
青年は見えない本を閉じるように、水の滑るような声音で、
「今日はここまでです。ご静聴ありがとうございました」
子供にまとわりつかれて動きにくそうに一礼。決まり文句で締めた。