最後の記憶
兄に関する最後の記憶は、風船。
きらきら輝く人工芝の緑。空の青。白く細く伸びる飛行機雲。
春の風。
手を離れていってしまった、空と同じ色のガス風船。
遊具のパンダが、黒い瞳で責めるようにじっとこっちを見ていたのを、よく覚えている。
当時、小学の、三年生。兄は三つ上なので、六年生。
そのとき父と兄と三人で出かけていて、父は下の階の電気用品店でなんだか難しい買い物をしていて、わたしたちに小銭を渡して、そのデパートの屋上にある小さな遊技場で遊んでいるように言いつけたのだ。
兄は屋上に着くなり、もらったお金の全部をわたしに渡してしまって、隅のベンチに腰かけると、「おれはここにいるから」と、空をボウと見上げて、それきり動かなくなってしまった。
わたしは本当は一緒に遊びたかったのだけど、もう、そうなると兄はいくら話しかけても、おれはいい、としか言わなくなって、じっと動かないので、しょうがなくわたしはその、寂しい風の吹く遊技場で、ひとりで、たまに兄の方を顧みながらコーヒーカップを思い切り回してみたり、一生懸命モグラを叩いたり、宇宙船に乗ったりしていた。楽しそうに遊んでいれば兄もやってくるんじゃないかとも思ったのだ。ムキになったせいだろう。残金はあっという間に減っていった。
残り数枚の小銭を残して、最後にわたしが挑んだのは少し割高のカップアイスをすくい上げるクレーンゲームだった。兄はよく食べる人だったから、手土産に持っていけば喜んでくれるんじゃないかと思ったのだ。
失敗したけど。
わたしはこの上なく、惜しく、切ない気分でクレーンに引っかかったカップが転げ落ちて、元の山に埋もれていくのを見送った後、途方に暮れた。
「お兄ちゃん、笑ってくれないんだもん……」
その頃兄は、ボウっとしたり、怖い顔でなにかを考え込んでいることが多くなって、わたしにはそれが、たまらなく寂しく思えたのだ。学校には少しずつ通えるようになっていたけれど、当時のわたしには、兄と居る時間は、ほとんど世界のぜんぶだった。
兄に、なにかしてあげたかった。
しゃがみ込む。兄の居る場所からもうずいぶん離れていた。
「ひとりぼっちだよ……」
ゲームの筐体にもたれて座り、空を仰いだ。
「あれ?」
なにか、視界の上で、揺れていた。赤、青、黄色…、ああ、きれいだなあ、と思って眺めていると、ぬい、と大きなピンク色のかたまりがこちらを覗き込んできた。
ピンと立った耳、プラスチックの艶めいた瞳、ずんぐりむっくりの体。
いくつも風船を持った、ピンクのウサギの着ぐるみだった。
もふもふした手で器用に糸を摘まみ、風船をひとつ、差し出して、小首を傾げてみせてくる。
青色の風船。
「くれるの…?」
尋ねると、こくこく、と頷いた。
受け取る。
ウサギがおどけた仕草でお辞儀して、すたこらと去っていくのを見届けると、わたしは立ち上がって、兄のもとへと駆け出した。
ふわふわ気分が浮き立った。そうだ、これを兄に持っていこう。アイスは取り損なったけど、いいのだ、食べ物なんかにこだわるのは、恥ずかしいことだ。このお空とおんなじ色の、たゆたい昇る魔法のかたまりが、きっと他のなによりも、兄を喜ばせてくれる。そんな、強い確信、というか、子供めいた思い込みがあった。実際、そのときは子供だったのだ。
少しだけ道に迷った。でもだいじょうぶ、そんなに広い広場じゃない。走ってくまなく回れば絶対に見つかる。走って走って、ずいぶんな回り道のあと、最初の場所に辿り着く。片隅のベンチで、空を仰いでいた顔がこちらを向いた。走り寄る。わたしはもう、早くほめて欲しい気持ちでいっぱいで、転んだ。
ずべしゃ。
ザリザリと頭から人工芝に突っ込んで顔面を擦った。でもそんなのは関係ない。もう、すぐそこに兄が居るのだ。体を起こして、手の内にしっかり握りしめたヒモが―――、ない。
「あ…」
風が、吹いた。
空へ、澄み渡る水色へと吹き上げられて、吸い込まれ、溶けてゆく、兄に贈る、大切な……。
慌てた顔の兄がこちらに走り寄る頃には、わたしはもうすっかりダメになっていた。
泣いた。
兄は言うのだ。痛いな、痛いな、ごめんな、と。違う。こんなのはぜんぜん痛くない。それよりわたしは、兄が、ぜんぜん悪くないのに、申し訳なさそうな顔をするのが悲しかった。
涙で滲んで崩れた空の彼方に消えゆこうとしている、小さな一点にわたしは必死に手を伸ばした。あれをね、お兄ちゃんにわたしたかったの、お兄ちゃんがよろこんでくれるって思ったの、そんな言葉は、自分の嗚咽に切り刻まれて、吐き出される前に砕けた。
「……あれか」
兄が、急に真剣な声で小さく呟いて、指を、二本揃えて、彼方に向けた。
その手が、くいっ、と返されて。
風が翻った。
遠くから、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。
戻ってくる。
わたしが手放した、青い夢。
空を渡って、金網のフェンスを越えて、吸い寄せられるように降りてきて。
すい、と兄の手に収まった。
そして呆けるわたしの手を取って、手首にヒモをしっかり結び付けて、頭を撫でながら、言う。
「ほら、もう放すなよ……」
その一言は、ずっとわたしの胸の深いところにずっと残っている。一音一音の唇の動きまで思い出せる。
結局わたしは、その風船は自分でなく、兄に贈るためのものだったと言い出せず、家まで、しっかり握って帰った。その風船は、二日ほどかけてゆっくりしぼんで、やがて自室の床に、落ちてしまった。
兄が能力をはっきり使うところを見たのは、それが最初で最後だった。餞別のつもりだったのかも知れない。
だから、予感はあったのだ。
兄が行方不明になったのは、その年の冬だった。