幽霊との混浴
脱衣所には、幸助が腰かけるための木製の小さな台座がある。立ったまま着替えるだけの平衡感覚が、彼にはなかった。
脱いで、風呂場へ。壁に手をつき、ゆっくりしゃがみ、合成樹脂製の椅子へ腰かけ、簡単にシャワーを浴びてから、浴槽の縁に手をかけ、中に入る。
中で体を折りたたんで、几帳面に肩まで湯に浸かる。幸助は無言のまま時間をカウントする。ストップウォッチ並みの正確さできっちり15分、ジャスト1300秒を数えるまで出ないのが彼の習慣だ。
2分と46秒を数えたところで、その声は聞こえた。
『あぁ~、いーいお湯だねえ。でもちょっと温くない? 追い焚きしない?』
若い女性の声だ。奇妙な声だった。さほど広くない浴室の中でちっとも反響しないし、そもそもどこから聞こえてくるのか判然としない。耳を介さず意識に直接、語りかけてくるようだった。
そして、覚えのある声だった。
けれども幸助はさしたる反応をせず、そのまま3分13秒までカウントを続けた。入浴中に、どうやら自分にしか聞こえない声に話しかけられた際の行動ルーチンを、彼は有していなかった。春日幸助は驚かないし、恐怖しない。
『あれ、もしもし? 聞こえてない? 意識のチューニングまたズレちゃってる? っかっしいなぁ、通ってる感じはするんだけど。じゃあ、これでどう?』
湯船の中に、ぼんやりと人のカタチが浮かび上がった。無色透明のあいまいなシルエットに、赤みのかかった肌色が差し、確かな輪郭が縁どられ、肉感を感じさせる複雑な曲面が生まれ、見る見るうちに、十代半ばほどの少女の姿が現れた。
ちなみに全裸である。
『んぅ~う』
彼女は身体の調子を確かめるように両手を組んで伸びをして、
『ぷはぁ』
と、下ろし、身じろぎ。浴槽の中で行儀よく体育座りになって幸助と向かい合い、首を傾げて微笑んだ。黒い前髪がわずかに揺れる。
『じゃーん。見える? 見えるよね?』
ぱっちりとした瞳を上目に遣って、そんなふうに問うてきた。
確かに見える。そこに居るように幸助には感じられる。だがおかしい。彼女の体は透けていて、ほっそりとした鎖骨からうなじにかけて、水面が遮っている。均整のとれた肢体を透して、湯船の底まで丸見えである。その出現に際し、水かさが増えることもなかったことから鑑みるに、どうやら彼女には質量が存在しないようだった。
「……」
幸助はこの未知なる存在について完全に対応を図りかねていた。結果、なんの反応も返せないまま、4分までカウントを継続した。完全に無反応で無表情である。
『えー、無視するの……? 図書館じゃ喋ってくれたじゃん』
「覚えています。能力を用いて荷電粒子に不可解な働きをさせ、襲撃者を撃退するのを見ました。同一人物と考えてよろしいですか」
『そうそう! あー、やっとちゃんと会話ができたよ。言葉が通じるのってとっても嬉しいね?』
「……なによりです。それで、貴女はどなたですか」
『ハイよくぞ聞いてくれましたー!』
彼女は勢いよく湯船から浮かび上がって宙に浮いたまま、ビシィ! とポーズを決める。全裸である。
『このあたしこそが!』
ビシィ!
『キミの頼れるパートナー!』
ズビシィ!
『いつもお傍に! 歌って踊れるハイパー美少女! その名もーッ!!』
沈黙が降りた。
『その名、も……、あれ?』
彼女は突然テンションを落として浴槽に沈んで身体を丸め、悩ましげに眉をしかめて両のこめかみを指先でグリグリと揉み上げた。
『あれ? ごめん、忘れちゃった』
テヘペロ、と、舌を出してウインク。
幸助は彼女に視線を合わせたまま、さしたる反応を返せずにいた。
彼の、デジカメみたいに無機質な瞳に見つめられた彼女は、イヤン、としなを作ってわざとらしく身をよじった。
春日幸助は突っ込まない。春日幸助は驚かない。春日幸助は呆れたりしない。
ただちょっと、対応を図りかねているだけである。
「……自分の名前を忘れたのですか」
『ん。あたしも、ちょっと色々、忘れちゃったみたい。キミもでしょ?』
「貴女は、『春日幸助』が記憶を喪失する以前から存在するのですか」
『えっと、その前に、あたしに話しかけるときは、頭の中でちょっと言葉を念じるだけでいいよ? 今、あたしの声はキミにしか聞こえないようになってるから。お風呂場で独り言してたら、恵実ちゃんにヘンに思われちゃうでしょ?』
幸助は言葉の意味を吟味してから、実際に念じてみる。
(これでよろしいですか)
『オッケ、聞こえてるよ』
(こちらに聞こえる貴女の声は指向性音声ですか、それとも)
『テレパシーだよ。あたしとキミの間に『つながり』が通ってるから、そこを伝って』
(抽象的でわかりかねます)
『ごめんね。ちょっとうまく説明できなくて』
(先の質問を繰り返します。貴女はどなたですか。また、実存する人物なのですか)
『あたしはあたしだよ。ずっとキミのナカに居たの。実存するっていうのは……、う~ん、あたしはここに居るよ?』
(貴女は幽霊なのですか。つまり、かつて生きていた、実際の人物の残留なのですか)
『かもしれないけど、生きてた頃のことは全然、覚えてないかな』
(自分の正体について心当たりがないのですか)
『全部、忘れちゃったみたい。あたしにわかるのは、あたしはキミの傍に居るために在るんだってことだけ』
(能力を使えるのですか)
『キミのを借りる形になるけど、そうだね』
(先の事件の調査、解決にあたり、ご協力願えますか)
『……キミが望むなら。でも、キミがやらなきゃいけないことかな。恵実ちゃん、心配するよ』
(彼女の安全のためでもあります)
『そっか。……ところでさ、キミのこと、なんて呼べばいい?』
(……コウくん、ではなかったのですか)
『あれ? そうだっけ? そんな風に呼んだ覚え、ないけど』
(他の呼び方を考えますか)
『ううん、コウくん、コウくんね……』
彼女はその響きを口の中で幾度か、転がして感触を確かめているようだった。
『うん、なんかしっくり馴染むね。それでいいや、ねえ、あたしの名前、考えてくれる?』
(……思いつきません。『この精神』は、そういった創造的活動には不向きです)
『そっか。考えといて』
会話は、それで一度、途切れた。
入浴は、きっかり十五分、続いた。
いつもの通りに。