春日家の食卓 1
春日家は、駅からほど近い、都心の15階建てマンション、14階、1403号だ。
帰宅は8時過ぎになった。幸助は、付近の住人が羨んでやまない夜景に、欠片の興味も示さぬままエントランスを歩み、自宅の玄関の電子錠に暗証番号を打ち込んで開錠し、入る。
「ただいま帰りました」
と、律儀に声を出して中へ。
はーい、お帰りなさい、と、廊下の向こうから声が応じる。デミグラスソースの香りがしている。
幸助は框に一度、腰かけて、靴を脱ぎ、端に杖を置き、室内用の一本足の杖を近くのクロゼットから取り出した。歩く。
洗面所で几帳面に手洗いとうがいを済ませてリビングダイニングに移ると、テーブルにはすでに大の男の拳骨ほどの大きさのハンバーグに、椀に盛った白米に、野菜多めの味噌汁が湯気を立てていた。幸助が連絡した帰宅の時間に合わせて作ったか、それとも温めなおしたか。
二人分。
恵実はすでに席に着いている。失礼します、と声をかけて幸助は向かいに座った。
「いただきます」
幸助は行儀よく手を合わせて、一瞬、黙祷する。
「はい召し上がれ」
と、恵実は微笑んだ。
しばらく無言の時間が過ぎる。食器が触れ合うわずかな音だけが響く。
幸助は具材の一つひとつを丁寧にすり潰すように咀嚼し、20分ほどをかけて全て平らげた。
少し早めに平らげていた恵実は、その様子を微笑みながらずっと見ていた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さま」
「恵実さん」
「なあに? お兄ちゃん」
「貴女だけ、先に食事をなされてもよかったのではありませんか」
「孤食は寂しいの。お兄ちゃんと食べたいんだってば」
「しかし、過度な空腹の状態から食事を摂ることは好ましくありません。低下していた血糖値が急激に上昇し、糖尿病や高血圧症のリスクを高めます。また、就寝の3時間以内に摂った脂肪分は、睡眠中、副交感神経系の働きによって吸収されやすいので、美容の観点から好ましくないと思われます。この献立から概算したカロリーがおよそ」
「ごめん、その先、聞きたくない」
遮られた。幸助はピタリと黙った。
「……お兄ちゃんと食べたいんだってば」
と、若干の間をおいて彼女はもう一度、そうつぶやいた。
「わかりかねます。それは、健康上のリスクを冒してまで優先すべきことですか」
「大事なことだよ」
「大事。先ほどまでの時間は、貴女にとって有意義だったのですか」
「さっきまでじゃなくて。今も、これからも。家族がちゃんと帰ってきて、一緒に過ごせるのって、すごく大事なことなんだよ?」
「実のある会話ができたとは、思えないのですが」
「一緒に過ごせるだけで、いいの」
「……了解しました」
「なにかあって、帰るのが遅れるときは、今日みたいに連絡ちょうだいね」
「わかりました」
「時間通りに帰ってくるのが一番いいんだけど」
「はい、出来うる限り定時の帰宅を心がけます」
「うん」
「ところで、今日の図書館での事件について、なにか報道はありましたか」
恵実の顔色が変わった。
表情が消えて、うつむきがちになり、視線ばかりが落ち着きなく泳いだ。
「うん……、警察は、バイオテロじゃないかって。詳しいことは、わかってないって」
掠れがちな、小さな声。
「犯行声明はありませんでしたか」
「……誰も、なにも言ってこないって」
「使用された毒物は特定されましたか」
「わからないって」
質疑応答が繰り返される度、恵実の声は小さくなった。
「わかりました、ありがとうございます」
「事件のこと、気になるの……」
「知りうることは知っておくべきと考えました。犯人は捕まっていません。目的も不明です。危険は継続しています」
「警察が一生懸命、調べてるよ。お兄ちゃんが気にしてもどうにもならないよ」
「知っていれば避けられる危険があるかもしれません」
「……余計なこと知ったせいで、危ない目にあうかも」
「充分、注意します」
およそ3秒、沈黙があった。
「お兄ちゃん、お風呂、入ってきなよ。少しリラックスして、余計なこと考えないようにして」
「わかりました。お風呂、いただきます」