未知への標
と、とん……。と、とん……。
杖をついて帰路につく。緩やかな下り坂。
黄昏も、夜の瑠璃に押し潰されて、既に落日。
北東から南西まで町を貫く図太い国道沿いの歩道。徒歩の速度で緩慢に南下する。
病院でタクシーを拾ってもよかったし、実際、父から家計の管理を任されている妹もそれを勧めて、少々過分な金銭を渡してくるのだが、幸助はできうる限り、乗り物を避けていた。
身体に刷り込まれた習慣だった。リハビリでずいぶん長く歩いたし、平衡の感覚を麻痺しているのも関係しているかもしれない。自分が歩いていないのに移動してしまう感覚に幸助は激しい違和を覚え、避けていた。
かすかに、排ガスの臭気。
ガードレイルのすぐ向こうでは、四車線の道路を、ヴワォブワォと、ランプの光を、燻った闇へと尾を引かせ、塗り付けながら、猛スピードで行き交う、車、車、たまに、原付。幸助はそれを視界の隅で捉え、目測で相対速度を演算し、時速を割り出してみる。距離感を掴むためのリハビリのつもりだった。自分の歩幅でガードレイルの支柱が等間隔であるのを確かめて、計算を開始する。幸助の体内時計は絶対だ。
時速、平均して62キロメートル。
法定速度は、50キロだった。
これが幸助には解せない。
今、行き交う車は道路交通法や標識ではなく、自分には理解しえない独自のルールに従って走行している。あの中で下手に50キロを順守するなら、まず間違いなく後部から追突されるか、クラクションで激しく煽られるだろう。幸助はそういうものに抵抗を覚えた。はっきりしない、建前と違う、理解しえないもの。
と、とん……。
だが、その不安も一過性のものだ。
確かに、いつもの動作を繰り返すこと、いつもの道を歩くことには、精神を安定させる効用があるらしい。やがて幸助の思考は穏やかに凪ぎ、そのプロセスが安定してゆく。
歩きながら、主治医の言葉を頭の中で反芻している。
――体温低く、心拍弱く、意識はない。
血液検査、MRI、いずれも異常なし。
脳波は、ノンレム睡眠のそれに近かった。
警察はバイオテロを疑ってるようだけど…。
体のどこが悪いと云うより、なんだろう。
生命そのものをごっそり抜き取られたみたいだ。
症状には個人差があるようでね。
たいてい点滴打ってしばらく寝かせておくと目覚めた。
ここに居るのは、特に症状が重かった者だ。
脈が極端に弱ったり、ときどき止まったりしてたんで……。
AEDでショックぶち込んだり、強心剤投与したりして、まあギリギリ。
ひとまず一命は取り留めた、かな。でも、いつ目覚めるかはわからない。
三年前から、ほら、みんなちょっと過敏になってるだろう?
なんでもオカルトに結びつけるのもどうかと思うけど。
例えば、君や…、霧崎彪女、能念才子、間藤巡査長のような。
超能力者が、絡んでいると思うかい?
ひとりで歩く幸助に表情はない。能面じみた無表情で落ちた日を追うように坂を下る幸助は、幽鬼のようでもあった。
表情は伝達の手段であり、相手が居ない以上、ひとりで笑ったり泣いたりする必要も、また理由も幸助にはない。狭い歩道で、後ろから歩いてくる人々に道を譲る際のみ、半身になり、軽く会釈する。その一連の動きは一定で、どこか機械的だ。大学生らしいカップル、談笑する女子高生、部活の帰りだろうか、男子中学生の列。この辺りは学校が多い。
譲る。
追い越されてゆく。
下る。
空が宵闇に押し潰されてゆく。
行き交う明かり。乗用車、トラック、原付、パトカー、消防車。歩道橋の下、速度落とせの警告灯。点滅する赤。
歩道橋の支柱の陰に、紅い光を回す赤色灯に照らされて、誰かしゃがみ込んでいる。
見覚えがあった。
カーキ色のジャージ姿の、少年だ。
「……」
坂を下る。
近づく。
背後から、見下ろす。
幸助は戦闘に備えて、意識を研ぎ澄ますが、少年から反応は無かった。
片膝を着き、合掌し、なにかに祈っている。
右の傍らには、黒光りする合成皮革の竹刀袋が寝ている。中身は切断された錫杖か、それとも別の得物だろうか。
鉄橋の支柱、その根元には、献花があった。
交通事故、のようだ。
近くの電柱は微妙に傾いており、ガードレイルは大きくへこみ、小路を挟んだ向かいにある床屋の建物、その灰色の壁には、巨大な修繕の跡がある。
ちょうど、今道路を走り抜けていった大型トラックの前面くらいの大きさだ。
「―――ひどい街です、ここは」
背を向け、屈んだまま。
変声期が終わっていないのか、しゃがれた、不安定な高めの声で、少年は言った。
「無理やり道を通すから、元々あった霊脈が乱れて…、気の流れがおかしくなってます。三年前からは、特に。本来の方位が歪んであちこちで門が開きかけてる…。ここでの死亡事故は、もう五件目ですよ」
「都市生命論のお話ですか」
そう、幸助は応じた。
「いえ。なんです、それ…」
立ち上がり、振り向いて、少年も問い返した。
歳は、十四か、五か。背は幸助よりずいぶん低い。
浮いた前髪、やや太い眉の下、切れ長の目で見上げてくる。
「街を有機的な生き物として捉える学説です。道路は生物における血管のような働きをし、そこを通る人、物、金は栄養素を運搬し、また異物を排除する血液細胞であり、栄養素そのものでもあります。道路の配置バランスが悪いと、栄養が行き渡らず一部がスラム化したり、また物流過多を起こすと、動脈硬化、血栓、内出血のように、事件や事故に繋がります。映晴は金融バブル時、急激に発達したベッドタウンですから、均衡が取れていないのだと考えられます」
「ああ、科学的にはそういう解釈なんですね。間違ってはいませんけれど……」
博物館に据え置きのスピーカーみたいに喋り出した幸助に、少年は物怖じせず、そんなふうに応じた。幸助は穏やかな態度で、静かに食い下がる。
「正確ではないのですか」
「ええ」
「詳しく知りたいのですが、お教え願えますか」
「まあ、講義はまた今度」
「ここで、あなたとこうして会ったのは偶然ですか」
「偶然っちゃ偶然ですけど、まあ、こっちに来たら、なにか事が動きそうな予感がしたんです。そしたらあなたに会えた。僕の直感は他の『同業者』に比べれば大したことなかったんですが、意外と捨てたもんじゃなかったですね」
「直感。第六感の類いですか」
「ええ、まあ」
「そうした能力を用いて超科学的な事件に対応する組織が複数存在し、商いを行っていると考えてよろしいですか」
「商いっていうか、生業ですけど」
「あなたは、図書館での事件の詳細について、ご存じなのですか」
「ええ。あなたが知りたがっていることを、お教えできると思います。ところで、自己紹介がまだでしたね」
頭を下げて、礼。
「桜、冬樹と言います。助けていただいて、ありがとうございました」
「春日、幸助です。どういたしまして」
「少し話しません?」
「時間のかかるお話ですか」
「短くは、ないですかね」
「単位にしてどの程度ですか。何時間か、何分か」
「んー、雑把に話して三十分、『ウチ』の歴史や仕事を踏まえて詳細を説明すれば1時間程度。こちらから伺いたいこともあるんで、長めに見積もって2、3時間ってところですか」
「それは、即座の対応を怠れば、また、不特定多数の人間が昏倒して意識不明に陥るというような、急を要する話ですか」
「まあ、『あの人』の行動パターンからみて、すぐってことはないと思いますけど」
「放っておけば被害は広まるのですね」
「ええ、間違いなく」
「それは日数にしてどの程度の猶予ですか」
「一週間ってところですか」
「貴方の言葉を信用すべき根拠を、なにか提示できますか」
「……んー、あの図書館の結界、貴方が戦ってくれてる間に、解いたのは僕です。信じてくれます?」
当時の状況から、信憑性は高いと幸助は判断した。
「了解しました。お話をうかがいます。家族に連絡を入れてもよろしいですか」
「構いませんけど、ご家族が一般人なら事情は伏せてください」
「一般人の定義によりますが」
「ご家族は知ってらっしゃるんですか? 『アレ』を退けたあなたの力について」
「答えかねます」
「そうですか。じゃあ、お任せします。でも、家族が待ってらっしゃるというのでしたら、日を改めた方がいいですね」
「お気遣いなく」
「いや、ご家族は大切になさってください」
「……了解しました。では、詳しいお話は後日。日程はいかがなさいますか」
「打ち合わせは、あとで。アドレス交換しましょう」
冬樹は、取り出したスマートフォンに、バーコードを表示させた。
読み取る。
幸助は読み取ったアドレスに空メールを送信。そのメールが届いたのを確認する形で、連絡先の交換は終わった。
その後、簡単な挨拶を済ませて、2人はあっさりと別れた。
幸助は坂を下った。
冬樹は坂を上った。