夢の中からの目覚め 妹と主治医
目覚めた先は、けれどもやはり、白い部屋。
ベッドの上。周りはカーテンで仕切られている。
上着を脱がされて横たわっていた。腕から点滴のチューブが伸びている。
気配を感じ、左に首を回して視線を巡らすと、白い首筋が目に入る。記憶と同じ制服姿だが、色合いが異なる。オレンジの地に真紅のライン。高等部に進学したのだ。
それは少女だ。ひとり、パイプ椅子に腰かけて座っていた。
髪も少し伸びて、白いシュシュで両肩の前に分けて結わえられ、ゆらゆらと揺れている。
俯き、大きな目を濡れたまつ毛に閉じ、なにかを祈るように合掌し、否、幸助の手を握っていた。心労に堪えかねて眠りこけたといった風情だ。
幸助が体を起こすと、「ん…」柔く細い声を上げ、小さな肩をピクリと震わせて、悩ましく、眉間に深く、皺を寄せ…、
「ん…、あ…ッ?!」起きたようだ。
垂れがちの大きな、潤んだ眼をいっぱいに見開き、耳まで顔を赤くして、
「あ…、これ、違くて、その…!」
バッ! と、勢いよく握った手を離し、無理矢理に飛び退こうとして、
「ひあぁあっ?!」
半端に椅子に腰かけた姿勢のまま後ろにひっくり返った。椅子の背と、頭部を床に打ち付ける痛そうな音が響いた。頭だけをカーテンの向こうに突き出して、シンクロナイズドスイマーみたいに見事な開脚を披露する。
静かにしてください。そして、ごめんなさいっ! とカーテンの向こうから声。
この間パンツは丸見えだ。白だった。
彼女は果たしてぐりん、と骨格に悪そうな捻転で姿勢を立て直して椅子を転がし、ベッドまで這ってきてその淵に手を掛け、ずい、と、地上を見上げる亡者みたいなアングルから、涙目で振り絞るように小声で叫んだ。
「どうしたのお兄ちゃん…ッ?!」
「状況がわかりません。貴女がどうされたのですか」
幸助は彼女のバイタルを慮った。どうも興奮しているようだ。
「あの、その…、先輩に学校の案内、してもらってたら、ケータイに、電話、が、あって…、兄さんが倒れて、救急車…ッ!」
「相当に強く頭を打ったようでしたが、大丈夫ですか」
「いた、痛むの…?!」身を乗り出してくる。
「痛みはしませんし、意識も明瞭です。大丈夫かというのは貴女です。貴女の後頭部のことなのですが、大丈夫ですか」
言うと、彼女は一瞬呆けて、俯き、後頭部を押さえた。涙声で「痛い…」呟く。そして、「痛い、よ…。兄さん、バカぁ…!」とうとう両の手で顔を覆って泣き出してしまった。
「痛むのでしたら、冷やした方がよろしいかと考えます。察するにここは病院のようですから。看護師に頼んで氷嚢を」
「あだぢはだいじょうぶだのっ!」
怒鳴られてしまった。
彼女の精神衛生を保全するため、泣きたいのならしばらく泣かせておいた方がいい気もしたが、訊くべきことがあった。
幸助は左手を慎重に彼女へ伸ばす。彼女の目を突いたりしないよう、極めて慎重にその肩へ、触れた。包むように、指と掌の全体で均等な圧を加え、握る。
引き寄せた。
「ひ、あ…っ?!」
ぽすん、と膝の上に頭を横たえる。
そっと撫でた。
「恵実さん」
意識して声に力を込めて呼ぶと、彼女―――、春日恵実は、一瞬、肩を震わせて、泣き声のトーンを落とす。
「今は、何年何月何日の、何時ですか」
「お兄ちゃんが出てから、日付けは変わってないよ。その、春休みの、はじめの、だからつまり……」
「2014年、4月、23日、日曜日。間違いありませんか」
「うん」
「時間は」
「七時、くらい……?」
「恵実さんに電話をよこしたのは誰ですか」
「先生……」
「主治医の狩矢崎先生ですか」
「うん……」
「図書館の様子を見て、誰かが救急を呼んだのですね?」
「うん。 ……うん、そう……」
「内海波音、陸、渚、美咲、音遠という患者は、近くに居ますか」
「わかんない……、ごめんなさい……」
そこまで聞くと幸助は、妹をそっと退けると、ベッドから降りて床に座り込んだ。
慣れた手付きで点滴を外す。液が漏れないよう、きちんとチューブの留め具を締めた。
呆ける彼女を尻目に、ベッド下の網カゴを漁る。財布と携帯をポケットへ。保険証と簡単な診断書が飲食店の伝票みたいに小さなボードに留められていた。これも胸ポケットに。そしてズボンから引き抜かれていたベルト。一瞬、そのバックルを観察してみる。ゴールドとチタンの合金らしい、黄白色の輝きでX字に交差する短剣のモチーフがあしらわれている。その裏側にはこんな文字が彫り込まれ、刻まれていた。
SAVER
JP No EXTRA
Code DESTROYER
SIN Name KHOUSUKE KASUGA
ズボンに通す。靴を履く。ジャケットを羽織る。傍らの杖に掴まる。立ち上がる。
「お兄ちゃん……?! まだ動いちゃ……」
「問題ありません」
払い除けるようにカーテンを開く。歩き出して、
「待った待った。ちょっとせっかち過ぎるよ、君は」
そんな言葉に、制止された。
その声は柔い女性のものだが、音の抑揚に妙な渋みがあった。
小さな手の平がふたつ、とん、と幸助の両肩を突き飛ばす。
後退する。ベッドに腰を落とす。見上げる。
べっこう縁の眼鏡を掛けた、白衣を着た小柄な女性が、見下ろしてきた。
幸助には極めてどうでもいいことであるが…、胸がでかい。
いっぱいに押し上げられた胸元には、ネームプレート。平仮名で、かりやざき、とある。
「問診がまだだよ。まったく、目を覚ましたのならナースコールを使うのが筋だろうに、君はどこの鉄砲玉だ?」
薬用リップでわずかに艶めいた小ぶりの唇が、幸助をそう詰った。
「……連絡が遅れて申し訳ありませんでした、先生」
対して幸助は詫びを述べてから、
「ですが問診は不要です。他の患者を優先すべきです。図書館からの急患は…」
「それはもう済ませたよ」
遮られた。
「というか現状、手の施しようがない。そのことで君に訊きたいことがあるんだけれど、問診ついでにいいかな。警察も来てるんで、話を整理しておきたいんだ」
「分かりました。ベッドを空けますか」
「いや、ここでいい」ギシリ、と。
言って彼女――狩矢崎医師は幸助の至近、左隣に腰を下ろして、
「恵実ちゃんは、先に帰った方がいい。長くなりそうだ」
向かいで目を見開き、口をパクパクと開閉させている妹に、そう告げた。
「でも、あの…」
「問診の内容には事件性が含まれる。警察の捜査上の証拠としてこれから扱われる。あまり聞かせたくないね。重ねて言うが、長くなるし」
主治医のダメ押しに、恵実は少し、言い淀んでから、
「夕飯、作ってるから」
「はい」
幸助が簡単に応じた。
「今晩、ハンバーグだから」
「はい」
「帰る時間がわかったら、教えて。ケータイは、壊れてないでしょ……」
「はい、メールで構いませんか」
「うん。……じゃあ」
軽く会釈して、カーテンの外へと、出ていった。
ふたり、残される。
口火を切ったのは、狩矢崎だ。
「可愛いね、恵実ちゃん」
「ありがとうございます」
「優しいね君」
「なにがですか」
「妹を抱きとめてたじゃないか」
「必要な措置でした。……何故すぐに入ってこなかったのですか」
「バレてた?」
「はい」
先程、転げる恵実に、静かにしてください、と注意したのは彼女の声だった。
「重ねてお尋ねしますが、何故すぐに入ってこなかったのですか」
「君の意外な一面が気になってね」
「わかりかねます」
「らしいね。まあいい、診察室の方じゃ早くに目覚めた患者の問診に、警官が立ち会ってる。面倒だろ?」
「助かります」
「意識ははっきりしてるかい?」
「はい」
「痛むところは? ……ああ、いや、失礼」
「いえ、お気になさらず」
「何本に見える?」
片手を広げて見せてくる。
「指は5本です」
「動かずに、見ていて」
手を幸助に近づけてきた。
小さな手だ。指はそれほど長くない。柔らかで滑らかな質感で、血色もいい。手相、血管まではっきり見える。
今度は離される。腕を伸ばし切ると、また近づける。
「見えにくい位置はある?」
「いいえ」
次に彼女は自分の顔の横で、人差し指を立てた。
「この指とまれ」
幸助は立てられた指に手を伸ばす。
伸ばした手は左右に揺れて、頼りない。フッと虚空を掻いて。
ぺたり、と。
彼女の頬に触れた。
「照れるぞ」
「失礼しました」
互いに手を引っ込める。
「前よりはずいぶんマシになったね。最初の頃は、目ん玉を突かれるんじゃないかと冷や冷したけれど。 …ちょっと立って」
と、手を取られた。彼女に引かれて、立ち上がる。
「片足立ち、右」
片手を取られたまま、左足を軽く上げる。
そのまま一秒、二秒、三秒、四秒…、グラついた。前にのめる。
とん、と肩を抑えられた。
「降ろしていい。フラついたら、足は無理せず降ろしていいから」
「、失礼しました」
降ろした。
「次、問題の左足…、はい、始めて」
右足を上げる。
一秒…、グラついた。後方。
右足を着く。だがバランスが戻らない。彼女に手を引かれる。遅い、弱い。成人男性の体重そのままに後方のベッドへと倒れ込み、ぼすん、と前と後ろから挟まれる。柔らかい。
ギシリ。ベットの軋む音がした。
「…君は」
至近から、声。
「わざとやってない?」
囁かれる。
ファサ…、と、髪がかかる。香水か、シャンプーか、フローラル系の香りが広がった。
レンズ越しの瞳、その瞳孔がわずかに拡縮するのがわかった。
彼女は密着したまま、頬に手を添えてくる。幸助の体温よりやや冷たい手で、そのまま…、
クイッ、と。
幸助の目を指で開かせた。
光が広がり、視界が眩む。ペンライトをかざされたのだ。右目、次いで左目。
「やっぱり、瞳孔の反応がほんの若干、鈍いんだよね…、眼底には異常なし。はい、口を開けて、喉を開いて」
言われた通りにした。
顔を近づけて、口腔を覗かれる。
「唇、火傷してるよ…、熱い食べ物には気を付けてと言ったのに」
一瞬、幸助の脳裏に雷光の輝きと透明な笑顔がフラッシュバックした。
一瞬だけだ。カチリ、と彼女がライトを切る音と共にデジャウは消えた。彼女が次に取り出したのは、化粧瓶のような小さなプラスチック容器だった。
蓋を開けて、乳白色のクリームを人差し指ですくい取る。
「動かないで……」
ギシ…。ベッドが軋む。
彼女は幸助の唇にレンズ越しの瞳を近づけて凝らした。
ツイ…、と。
そっと、唇に触れて、なぞるように塗りこんでくる。
吐息がかかる距離。
目線の下部、彼女の頭頂部の、天使の輪のような光沢が、わずかに身じろぎする度に艶めき、髪は頬と首を撫ぜる。
「うん、いつも通りだ」
ギシリ。言って、彼女が離れた。再び隣に腰を下ろす。
幸助も追って体を起こした。
「わざとでは、ありません」
唐突に言った幸助に、彼女は、うん? と小首を傾げた。
「先程の質問の回答です。文意をとっさに把握できませんでした。意図して先生をベッドに引き倒した訳ではありません」
幸助の発言に年齢不詳の女医は、一瞬、目を丸くして口を半開いた後、クス、と小さく呼気を吐きつつ眉根を寄せ、片頬を歪めてから、「わかってるよ」言った。
「すみません、怒りましたか…」
幸助はできるだけ申し訳なさそうな表情を作って、慎重に自分の声のトーンを測りながら、訊いた。
「どうしてそう思ったんだい?」
彼女が訊き返すと一瞬の間を置き。
「眉間に皺が寄っていました」
言うと彼女は自分の眉根に慌てて手をやって「嫌だな…」呟いてから。
「今のは苦笑というやつだ。怒ってない」
「回答に、なにか間違いがありましたか…、言葉を取り違えはありませんでしたか」
「いいや、さっきの会話に齟齬はなかったよ。わざとなのか、わざと引き倒したのか、という問いに対して、わざとではない。合っている」
やや長めに間をとって、考えてから。
「ですが貴女は、わかってる、と言いました。わかっていて質問したことになります」
「その解釈でいいんだ。わかっていて訊いたのさ」
今までで一番長い間があった。彼女は幸助を静かに見据えて、言葉を待っているようだった。
「意味、を…、掴みかねます。どういうことでしょうか?」
声を、絞り出す。
彼女は問いを受けてから、一瞬、ふむ、と考えて。
「さっきのは掛け合い、というもので、決まった内容の言葉を交わして、互いにわかっていることを確認し合い、信頼を高めるものだ」
「…特定のルーチンをこなすことに意味があるということですか」
「そうだよ」
測って、と体温計を手渡された。脇に挟む。
「いつもやっていること、単純な作業を繰り返すことには情緒を安定させる効果があるんだ。さっき自分で妹さんにやっていたじゃないか。単純な質問を矢継ぎ早に与えることで、思考に論理、整合性を持たせる。要は落ち着かせる」
幸助も以前、カウンセリングの手法や心理学に関する書籍で同様の記述を読んで、『記録』してはいたが、今、それを実体験として自分に当てはめる彼女の意図がつかめなかった。
「先生に、落ち着かせていただくほど、興奮してはいないつもりです」
「うん、君のメンタルは一定だ。…体温計挟んだままシャツ捲れる? ジャケットはそのままでいいから…」
幸助は胸元までシャツをたくし上げた。
病的に白い体は、けれどやや筋肉質だ。
主治医は聴診器を、火傷の痕がシミのように広がる鳩尾のあたりに当ててくる。
「深呼吸」
スー…、ハー…、聴診器をずらしてくる。刃物傷が走る左胸。肋骨の隙間に図太いナイフを差し入れられたよう。スー…、ハー…、聴診器がずれる。小さな環状の腫れものが、いくつも残る右胸。銃創だ。スー…、ハー…、ずれる。手術痕の残る下腹部。へその下を真横に横断したつぎはぎの痕。
「はい、いいよ」
シャツを下ろした。
「やっぱりどこにも異常ないね」
「やっぱり、ということは、わかっていて診たのですか」
「わかってはいたけれど、確かめないと不安じゃないか」
「わかっていても、ですか」
「わかっていても、だ」
彼女は小さく、小ぶりの唇から呼気を吐いた後。
「なにせ君ときたら、どこにも異常が見当たらないくせに、ついさっきまで意識がなかったんだから。実を言うと取り乱していたのは私のほうでね。…けど安心したよ。いつも通りの君だ」
「そうですか」
「あそこまでされても、君はなにも感じないんだね」
言って、彼女はやや目を伏せて、先ほど、苦笑と自称した同じ表情を浮かべた。意図は不明。幸助は会話の趣旨、文脈を喪失してしまう。
沈黙が降りた。
彼女の最後の発言から、幸助がなにを言っていいのかわからぬままに、カーテンの向こう、部屋の隅で掛け時計が19回、秒を刻んだ。
電子音が鳴った。
脇に挟んだままの体温計だった。幸助はとっさに動けないまま、さらに5秒が経った。
「見せて」
主治医は微笑んで言う。
「なにを、」
幸助が問うと、彼女は口元を手で押さえつつクツクツと肩を震わせて笑ってから、「体温計」と答えた。何故、彼女が笑ったのか、幸助には解らなかった。
言われた通りにした。自分で数値を確かめることもせず手を突き出して、手渡さず、愚直な動作で、デジタル表示を彼女に向かって見せた。彼女は小さな電子機械を摘まむように持つ幸助の手をそっと両手で包んで、顔を近づけた。返る言葉は――――――、
「平熱だ」
彼女は体温計を、幸助の指を解きほぐすように取り上げて懐にしまった。
それを見届けてから、ゆっくりと彼女に向けて、言葉を発した。
「通常、わかることより、わからないことの方が、不安だと考えています」
「そうだね。じゃあ謎を解き明かすべく本題に入ろうか」
答えて彼女は立ち上がると、空間を仕切るカーテンを開け放った。
「図書館でなにがあった?」
仕切りの向こうは大部屋だった。
ベッドが並んでいる。空きはない。
ナミネ。
リク。
ミサキ。
ネオン。
――ナギサ。
紅く染まった本の国で見た人々が、意識を失ったまま、横たわっていた。