殺し合いとの邂逅
春日幸助は、内海渚が崩れ落ちる音を知覚して、振り向いた。
「渚さん、どうしましたか。渚さん」
死んだように動かない彼女のそばに屈みこむと、数度呼びかける。
それからの判断は異様に早かった。胎児のように丸まって横たわった彼女を仰向けに広げると、首の裏に片手を差し入れ、軽く持ち上げると気道を確保。しながら、さらに大声で呼びかける。頬と太ももを順番につねる。反応がない。脈を取る。弱い。呼吸は浅くゆっくり。
「職員の方! 救急車をお願いします! 10代女性、倒れて意識ありません! どなたか救急車お願いします!」
声が、ただ広い空間に反響する。8秒ほどかけてもう二回同じことを叫び、どこからも誰からも返事がないことを認めると、幸助はその場を離れた。どなたか119番をお願いします、と何度も叫びながら、書架を抜け、貸し出しカウンターへ。
春日幸助は走れない。杖を突きながら、彼の行いうる最速の歩行でカウンターへ。
カウンターを目視で確認。壁面にくっつくようにある半円形のカウンターは、全部で四つ。ひとつにつき二人から三人の人間が常駐しているはずで、だが誰もいない。何故かはわからない。けれども有線の電話は使えるはずだと幸助は一番近い第四カウンターの裏手へ回り込む。
中で二人の女性職員が倒れていた。
察した。館内の誰も彼もが『こう』なのだ。
幸助はもう、倒れる二人の安否を確認したりはしなかった。備え付けの受話器を取る。本体から外れて、コードから垂れ下がっていた。一度本体に戻す。取る。ダイヤル。119。
回線に繋がっておりません、という、機械音声が流れた。
幸助は受話器を放ってカウンターから出た。
書架の陰になっていてわかりにくかったが、人はあちこちで倒れていた。自習室や談話室で眠っているように見えた人間が皆『そう』なのだとしたら、ことは個人の『体調不良』では済まされない。電話が通じないのもおかしい。意図されたとしか考えられない。幸助はスマートフォンを手に取って電波状況を確認しながら出口へ向かった。幸助が最後に考えた可能性は、電話回線を切断し、妨害電波まで出して、外界との連絡を断っての、無作為に多人数を標的としたバイオテロ、というものだった。薬品が建物全体にいき渡るように、数か所で散布したとしか思えない。幸助は、これまで『記憶』した書籍の中から、広い館内に気化して全体に行き渡り、人間の意識を奪いうる劇物に関する記述をいくつか思い返し、個人での対処は不能と迅速に判断した。
どうして自分ひとりが動けるのか、という疑問を、幸助はひとまず差し置いた。とにかく歩く。外に出なければ。
――コウくん。
と、途中、声を聴いた気がした。ガスの吸引による幻聴と判断。歩行を継続。
到着した。
この建物の正面出入り口は、四方をガラスに囲まれて、箱状に突き出ている。図書館側と外側、二枚の自動ドアを通らないと出入りできない。これは冷暖房の効率を高めるための二重構造だった。
それで、その内側の箱世界。
中の空間が、赤褐色の液体で満たされたように、たゆみ、揺らいでいた。
箱の向こう側、外は見えない。
これはなんなのか。
そもそも、自動ドアのくせに自動で開かないのはどういうことか。
今から裏口に回って…、却下だ。間に合う保証はない。
事態は一刻を争う。
幸助は、内側に得体の知れないモノを孕んだ扉に右手で触れた。
念ずる。
バアン、バアン、バアン! と頑強なガラスに、数か所の穴が空いた。
バシャアン、と。
破片が粉雪のように崩れると、不思議なことに、内部の紅い空間は揺らいで消えた。
破壊された自動ドアが思い出したように、本来の機能に従って左右に開く。
本の国の、内と外とを隔てる小さな箱世界。嘘のように異常は消え去っている。
中に入る。
床の中心に、紅い塗料で奇怪な紋様が描かれている。同心円の中に幾つもの幾何学模様と、線に沿って記された無数の文字列。それは幸助が以前に見た、古代の風俗を扱った研究書や、宗教の経典や、少年漫画や、ゲームの攻略本の中に在る―――いわゆる魔方陣というやつに、酷似していた。
ふと、音が聞こえた。
カシャン、キン、キン。
鋼を打ち鳴らすような金属音。
音源が、透明な扉の向こうで、激しく動いている。
目を凝らす。
ギャギャ、ギキキキキキキンッ!! ビュゴッ、ガガ、ゴン!! シャインッ!!
ドッ、ダアン! ブオン!! ズッシャアァアアアア…!!
ヒュイッ、ギャイィイインッ!! ビュオゥン! ガカカカカカカキャインギンッ!!
映像より先に、二枚目の自動ドアが開いて、音をいっそうはっきりと幸助へ届かせた。
図書館の敷地は広い。自動ドアを抜けると、凝った造りの石畳が敷き詰められ、モダンな雰囲気のベンチや花壇が並んでいる。
穏やかさの象徴のような景色の中、異物が――――、二人。
常識を超えた光景だった。
二人の男が衝突し、打ち合わされた鋼が光る。
黄昏の暁を照り返して明滅し、ぶつかり合う度、火花を散らし、様々な音を響かせている。
砲弾のように飛び交い炸裂する、ふたつの人影。
瞬きする間に立ち位置が入れ替わる。
互いの手に持つ得物は、武器であるはずなのだが…、常軌を逸した速度に幸助の目には茜日を照り返すオレンジのラインにしか映らない。
どんなに馬鹿げたアクション映画でも、こんな演出はあり得ない。
観客の目に捉え切れない攻防など、見世物として失格だろう。
あり得ない剣戟は、自然な逆説を観る者に叩き付ける。
あり得ないからこそ、それは現実に他ならないのだ、と。
本物の達人。現実の殺し合いがそこにあった。
恥ずかしながら、帰って参りました。
大学卒業を機に、本格的に書いてみようと思います。
また、同ペンネームで、別サイトでも活動しています。よろしくお願い申し上げます。