紅い神殿
ナギサ。フルネーム、内海渚。内海家長女、十三歳。この春休みが終われば、中学一年生。
武装。頭部の毛髪は、母のリンスでここ数日キューティクル補修処理したうえ三つ編まれたサイドポニー形態に可変し厳重に防護。眼鏡ディスプレイには百円均一で選別された赤色フレームの伊達メガネを着装し、知的擬態を実現。唇は薄桃の着色リップで強化し、自信の持てない言葉たちを艶めきを付加し突貫力を高める。
今、勝負のとき。
杖を突いてぎこちなく歩く彼の半歩後ろを、やや俯き加減でついていく渚は、受付カウンターのお姉さんが二人を見て微笑んだのに気づき、慌てて会釈を返す。
と、とん。すたすた。
児童書のコーナーは小学校の教室を六つ合わせた程度の広さで、図書館の中では隔離されている。明るく穏やかな色調の部屋の中、二人は青年の腰元ぐらいしかない書架を突っ切り、部屋の出口、自動ドアを抜ける。
空間が急に開け、西日が朱く、立体的に広がった。
大型トラックが余裕を持って擦れ違えそうな広い通路の向かいは一面ガラス張りで、噴き上がる噴水に囲まれた塔のようなオブジェが見える。ロの字型の建物の中心で、四階建ての建築それ自体を突き抜けて高く高くそびえるそれは、積み上げられた巨大な本で、手前の石碑には『知識の塔』作者 獅子堂 贋 とある。
右手側には軽食を販売する売店や喫茶があって、その前には小洒落たデザインの椅子やテーブルが並んでおり、デパートのフードコートのようになっている。閉館前だからか、人の姿はなかった。
二人が進むのは左手側だ。駅の改札のような自動機械は、手続きを経ていない本の出入りを感知して警報するセキュリティだ。四脚の大きな杖のせいで青年は通り抜けられないので、なんだかぼうっとした様子の係員が見張っている端の通路を通してもらう。
セキュリティを抜けると、ロの字の角に突き当たる。曲がる。真っ赤な陽光に照らされた石造りの建築は、静謐な神殿を思わせた。一定の間隔でどこまでも書棚が並ぶ様は合わせ鏡めいていて、空間全体が大きく広がって見えることもあり、ともすれば遠近感が狂いそうだ。
ふたりで、幻想めいた本の国を歩く。
閉館が近いせいだろう。
カウンターに職員は見当たらず、書架の間に他の利用客は見付からない。
呼べばやってくるし、探せば居るのだろうが、その必要も特にない。
差し込む西日が赤らんでいる。書架に朱がかかっている。棚に並ぶ無数の文字列も、紅く溶けるよう。杖をついた不思議な青年につき従い、本の国を往く。
渚がこの青年と知り合ったのは、昨年の冬の終わり頃。彼の名を、春日幸助という。
好きになるのに、さして時間はかからなかったと思う。
落ち着いた声音。穏やかな物腰。同級生の子が先生に使うのとは全然違う、綺麗な言葉づかいを、相手が誰であっても崩さない。彼が物語を語るときの瞳は、まるで本当に違う世界を映す宝石みたいに澄んでいる。
彼について知っていることは多くない。毎日のように図書館に通っていること、凄まじい速読と記憶術の達人であること、毎週日曜は子供達に本の朗読をしていること。
妹が一人、居るらしいこと。
足が悪く、いつも四脚の大きな杖を突いていること。
聞きたいことはたくさんある。
歳はいくつなのか。
足が悪いのは生まれつきか、それとも事故かなにかだろうか。
学生、だろうか。
だったらきっと、成績なんかいつもトップで、朝礼で表彰されたりして、学校の女の子の好意を一身に寄せつけていて、だけど彼は告白は全部断って、ある時やってきた凄く美人で優しい教育実習生の女の人にも告白されるんだけど、それでも彼はにべもない。ごめんなさい、と、いつものように断ってしまう。どうして? と、彼女が問うと、彼はこう答えるのだ。
気になる人が、居るんです。
まだ小さいけれど、一生懸命で優しい子です。
彼女が大きくなったら、きっと一緒に幸せになろうと思います。
その子の名前は……
「ナギサさん」
「えっ?! わたしそんな、困ります!?」
「困る…。なにかお困りなのですか」
心臓が口から飛び出るような心地で顔を上げると、ずいぶん離れたところから彼が声をかけてきていた。妄想に耽る内に見当違いの方向に歩いてしまったらしい。慌てて追いつく。
「ご、ごめんなさい、ぼうっとしちゃって…」
「いいえ。なにかお悩みでしょうか」
歩みが止まる。彼は壊れたコンパスのようなぎこちなさで杖を軸に振り返り、首を傾げ、静かな目でどうしたのかと問うてくる。ふたり、向かい合う。視線を絡め取られた。彼の瞳は銀河鉄道の車窓から覗く宇宙の神秘よりも昏く深く、ブラックホールじみた強烈な引力で目も心も捕らえて放さない。人の気配のない赤く染まった図書館は世界が終わった後みたいに静かで、白昼夢のように現実離れしたこの場所にどこまでも二人きり。
ふたりきり。
苦しい。うつむく。
「その、だいじょうぶ、です。すみませんでした…」
数瞬の間があって、
「気分を害したわけではないので、謝罪は必要ありません。ただ、一緒に歩く相手を見失う程に前後不覚、というのは、事件や事故のリスクを徒に高めることから望ましくありません。この周辺の交通状況は劣悪ですので、その調子で外を歩けば、最悪、轢かれて死にます。お気をつけください」
「はい……」
すでに恥ずかしさで死にそうだった。ひどく真面目に叱られてしまった。視線を落としてうつむいたまま、頭の上から降ってくるいつも通りの穏やかな声音に押し潰されそうな気分でいると、彼はさらに言葉を響かせた。
「案内を続けても構いませんか」
「……はい」
とん、とん。すたすた。うつむきとぼとぼついていく。
それにしても人がいない。人影がない。
いや、あった。建物の各所には所々ガラス張りになった自習室や談話室がある。課題を片付けにきたのだろう学生や、余生を持て余した年輩の人々が、机に突っ伏して眠っていた。人の姿を見つけて、渚は少し安心する。例えば授業中の教室でも、こういうことはたまにあった。一人、また一人と眠りに落ちていって、終わらせた課題を教壇に提出に行く頃には、監督の先生まで眠っている。別に珍しいことじゃない。いよいよ閉館が近くなれば、職員が起こしてくれるだろう。西日に紅く染められた本の国は、なんだか異世界めいていて怖かったけれど、なんのことはない、いつも通りの日常が温く横たわっているだけだ。
整然と並ぶ本棚の間を通って歩く。書棚は遠目には低く見えたが、中に入って歩くと、小柄な渚は視界をほどんど塞がれてしまった。鏡の迷宮にに迷い込んだアリスの気分。けれども目の前を歩く彼は、時計ウサギみたいに慌てふためいたりはしないし、時間にはとても正確だ。閉館までにきっちり案内を終えて、いつもの通り、館の前で別れることになるだろう。
いつも通り。
でも、そうだ。
今日はこのいつも通りを、少しだけ前に進めたくて……。
「ここです」
銀河鉄道の夜は、児童書のコーナーにない。古典文学と一緒くたになって、建物の隅にある。おかげで結構歩いてしまった。結構歩いたはずなのに、結局チャンスをふいにしてしまった。
渚が落ち込む間も待たず、彼は左手で杖を握ったまま不器用に膝を折って、書架に伸ばした右手を、ゆらゆらと不自然に泳がせた。
「あ、ごめんなさいっわたし取ります!」
伸ばした互いの手の甲が一瞬、触れ合ってどきりとする。「すみません」と詫びる、彼の吐息混じりの声が近い。渚は慌てて立ち上がって小さな文庫本を胸に掻き抱く。大切に。
「ありがとうございます」と、彼に丁寧にお辞儀された。
「わたしが借りる、本ですしっ、その……、目も、よくないって、わたし、知らなくて……」
目。と、彼は短く復唱した。余計なこと聞いちゃったかな、失礼だったかな、と渚は慌てる。
「ご、ごめんなさい、わたし、なにか……」
やや、長めの沈黙があってから、彼が話し出した。
「どうして謝るのかわかりかねますが、目がよくないというのは誤解です。上手く物をつかめないのは、脳の、小脳に損傷があるせいで、遠近の感覚に障害があり、視界に映る対象物との距離が測れないためです。同様に、足も悪くありません。杖を突いているのは、平衡の感覚に障害があるためです」
彼の台詞はやや長く、難しかったが、渚は元来、人の話をよく聞く性質で、読書家でもあったので、ほとんど理解できていた。また、彼の語調はいつもどおりで、別に怒っているわけではないのもわかった。
「……そうだったんですね」
せっかく彼の話を聞けたのに、上手い言葉が返せなくて、ひどくもどかしかった。なにか言わないといけないのに、という思いだけが先に立って、ちっとも喋れない。
「はい」
自然、応じる彼の返答も短くなる。もともと、聞かれたこと以外はほとんど口を利かない人だった。いたたまれなくて、うつむいてしまう。
「申し訳ありません」
余計な口を利かないはずの彼が、ふと、謝罪の言葉を落とした。
驚いて顔を上げる。いつもと同じ、変わらない、静かな瞳があった。彼は、話す相手から決して目を逸らしたりはしないのだった。
「どうやら説明を怠ったせいで、貴女に余計な心労をおかけしました。この身体的不都合については、どうかお気になさらないよう」
「ちがい、ます。ごめんなさい」
「なぜ謝るのですか」
違うのだ。
「わたし、春日さんのこと、全然、知らなかった、から。わかってなくて……」
「それは悪いことなのですか」
「よくない、です」
気を抜くとすぐに自分の視線は地に落ちる。それでも頑張って彼の方を見ようとするせいで、渚の眼球は上下に、不規則に動いた。彼女は頭を巡らせて、続く言葉をひねり出す。もともと伝えたいことは別にあった。
数瞬、見詰め合う。言うなら今だ。いけ―――いけっ!
「あのっ、春日ひゃん!」とんでもなく変な声が出て、恥ずかしくて俯いた。
「はい、なんでしょう」と、落ち着いた返事が降ってくる。
「この春休みは……、どう、してますか」
「どう、とは、なんでしょうか」
彼は首を傾げた。もう一息。
「あの、なに、してますか、予定とか……」
「他に差し迫った用ができない限り、開館日は毎日ここに通うつもりです。他の時間は、買い出しや通院等、細かな外出を除けば、自宅で妹と過ごすと思います」
「じ、じゃあ」と、息を継いでから、「私が図書館にくれば、毎日会えますか」
マズいいくらなんでもブッコミすぎた、ダイタンすぎる、と渚は自分の発言に狼狽した。
「閉館日は会えませんが」
どこかズレた返答に渚はかえって安心した。このまま会話を押し込む。
「開館日は、会えますよ……ね」
「ここに来ていただければ、確かに会えます」
事前に考えていた言い訳を必死にひねり出す。
「えっと、わたし、中学に上がる前に、今までの復習とか、するのに、ここに通うつもりなので……、えっと……」
「……」
言葉に詰まった渚に、彼は続きを促したりはしなかった。つぶさに観察されているようだった。渚が言葉を発さなければ、彼は閉館ギリギリまで愚直に待ったかもしれない。
「それで、ついででいいので、お邪魔でなければ、お話、とか、できたらなって、思って」
「話。……なんの話をするのですか」
「なんでも、その……、本の、こととか、学校の、こととか、春日さんの、こと、色々」
感情の読み取りにくい彼の声に、戸惑いが混じった気がして、渚はひどく動揺した。いくらなんでも図々しかったろうか。とにかく彼からの拒絶が怖くて、俯いてしまう。頭頂部に、彼の視線を感じた。数秒か、数分か。『ごめんなさい忘れてください』と喉まで出かかったころ、返事が。
「わかりました、留意しますが、今後の予定によっては毎日通いにこられるとは限りません」
「あ、はい。それは、もちろん」
「携帯電話はお持ちですか」
「は、はい」
「それは、QRコードを読み込めますか」
「はい」
「でしたらこれを入力していただけますか」彼が懐から出したスマートフォンをぎこちなく操作すると、四角いバーコードを画面に表示させた。渚は一瞬だけ呆けたあと、「はいっいただきます!」と、ほとんど喰いつくように自分の端末でこれを読み取った。
リード。デコード。表示された情報に渚は畏怖と共に甘い戦慄を受ける。春日さんの個人情報! 電話番号にメールアドレスは当然のこと、生年月日に住所まで!
渚の煮えた頭のほとんどは、これでいつでも連絡が取れる、とか、誕生日をお祝いできる、とか、住んでる場所が意外と近い、と喜んでいて、冷静な部分は、やっぱり自分よりだいぶ年上だったことにやや萎縮していたり、あっぴろげに開示された住所に無用心じゃないか、と思ったりしていた。かなりグチャグチャの思考で、それでも登録まで完了する。どうしよう、と思う。
頭がふわふわして、どうにかなりそうだ。なんだかさっきから熱っぽいのに、もう倒れそう。
「ご用向きの際は、そちらへ連絡ください。ところで、その携帯の電波は、今、通じていますか」
「あ、はい」
やや慌てる。今、目の前の彼に連絡が取れるのか、ということだろうか、と思い至る。そうか、もらいっぱなしじゃ失礼だ。わたしのプロフィールも送らなきゃ、すぐ送らなきゃ、と渚は慌てた。かなりテンパっている。
「はい、私からも……あれ? 圏外です」
マナーモードになってはいるが、いつも電波は問題なく通じる、はずだった。
「こちらも圏外です。察するに、なんらかの電波障害のようですね。ともかく、その本の貸し出し手続きを済ませましょう」
「はい。……ありがとうございます」
絶対あとでメールしよう、しっかり改めてご挨拶しよう、と渚は心に決めて、貸し出しカウンターへ向かう彼の後ろに続いた。メールの文面を考えながら歩いたのがマズかった。
突然、彼が足を止めた。
その背中に頭をぶつけてしまって、「ごっ、ごめんなさい!?」彼はバランスを崩して二歩、三歩と、前に歩んだ。
しかし彼は体勢を立て直すと、すぐにはこちらを振り向かず、灯台のランプみたいに頭を巡らせて周囲を見回した。その様子におどおどしてしまう。どうしたんだろう。
ゆっくりと振り返ってこちらを見下ろしてくる。
「ナギサさん。なにか、言いましたか」
「いえ、その、ぶつかっちゃって、ごめんなさい……って……」
「他になにかいいませんでしたか。……訂正します。誰か、こちらに話しかけてきませんでしたか。若い女性の声でした」
「え、え? 今……ですか?」
「およそ18秒前です」
「でも、誰も、いませんけど……」
そう答えると、彼は再び視線を巡らせて周囲を確認した。渚も倣って、辺りを見渡す。
「そうですね、誰もいません。極めて珍しいことです」
確かに人が見当たらない。大理石に似せたらしい冷たい質感の床、高い天井、書架、書架、書架。紅い夕陽に晒された空間は寒々しく、人は見当たらない。まあ、こういう日もあるだろう。そもそも閉館が近い。ふたりで話してるうちにみんな帰っちゃったのかもしれない。急がないと、と、熱に浮かされた頭で考える。熱に浮かされた渚は、その不自然さにも、自分の身体から、得体の知れない力に少しずつ体力を奪われていることにも気づけない。
「渚さん」
「はい」
「景色が、紅すぎます」
今度こそ意味がわからない。
「ええ、なんだか、真っ赤ですね」
「この図書館は、陽射しで本が傷むことを避けるため、外に面した窓には本宮重工の特殊偏光ガラスを用いています。この時間帯の日光の入射角と、今朝方の天気予報から鑑みた大気の状態からみても、この景色は紅すぎます」
「はあ」
渚は、春日さんは色んなこと知っててすごいなあ、と感心しながら、もうちょっと上手い返事ができないのか、と自身を責め立てていた。一方で、自分の身体の変調に気づいていた。嫌に熱っぽくて、めまいがする。けれど、まあ、恋の病っていうくらいだし、と無理やり納得していた。それにもっと彼と話していたかった。
その時間も、今日はもう終わりだった。
内海渚は、意識を失って倒れた。