第三十八話
「そこまで、後ろから回収しろ」
テスト試験管の声が教室に響く。同時に室内の緊張が解け、変わって大量のため息が埋め尽くす。
圭は自分の回答を持って席を立った。圭の席は列の最後尾、解答用紙を回収するためだ。
今回の圭にとってテストはそう難しいというものでもなかった。
しっかりと判別式を理解していれば解ける問題だ。
あいつは大丈夫だろうか、圭は回収し終えた解答用紙を試験監督に提出しながら昨夜のことを思い出した。
昨日の夜、話の後仕方なく圭は勉強を見てやることになった。
全然分からないと言っていたが、圭は心の中ではそれが日本人独特の謙虚さから来た言葉だと思っていた。
そう、判断を誤った。教科書を開いて数分、圭は栄凌高校の入試に対して文句が言いたくなった。
他がいくら出来ようが数学の基本が出来ていない奴を入れるんじゃない!
例えスポーツ特待生としても!
そう強く発言したかった。しかしながらこれは数学が出来る人間の発言であり、出来ない代表である絢は分からないものは分からない、の一点張りだった。
理論的な事を絢に説くのは不可能と感じ、不本意ながら圭は公式を暗記させるという手段に出ることにした。
計算するべき数字の場所を覚えさせるという、暴魂ばりの強硬手段に出たのだ。
理解力は悪いが記憶力は良いらしく、絢はそのやり方に若干の手応えを覚えてから本日のテストに臨んだ。
まぁこの問題なら赤点は免れただろう。念のため絢には自己採点のために問題用紙に回答を移させている。
今日の夜に泣くかどうかは絢次第であった。
「そうだ、紀来!」
次の社会の見直しをしていた圭に声がかけられる。見ると陸上部の顧問でもあり一組の担任の体育教師、高城だった。
いつもジャージ姿の三十代後半の独身男。手にはテストの回答の束を持っているため、高城もどこかでテスト監督をした帰りになのだろうか。
前の扉から半身だけ教室に体を入れている。
「放課後ちょっと教官室まで来い」
この教官室というのは体育館の傍にある体育教官室のことだろう。
「分かりました」
何の用かは分からないが一先ず了承した。忘れんなよ、そう言って高城は教室から出て行った。
念のため絢の方に連絡を入れようかと思ったところで圭は手を止めた。
「そう言えば食材切らしてたな」
休み時間は残りわずか、圭は素早くメールを打った。
絢は買い物袋を手に提げて、ユートピアの前に立っていた。昼間、携帯に圭君から着信があった。
社会の勉強をしなければならない時に何事か、と思った絢は携帯を開いた。
放課後は用事があるから先に帰れ、という文章。
まぁそれだけなら只の連絡(何故命令文なのかに不満はあるが)なのだが、その後に『ついでに買い物頼む。買う物は~』と書かれていた。
何これ、雑用!?
と怒り心頭なのだが、今は居候の身であり従う他なかった。絢の食べる分、確かに消費の量は多くなってしまうので頭が上がるはずもない。
そして今に至る、高級マンションユートピアの前に。
《入らないのか?》
肩に乗っている琥々が催促して来る。琥々は移動の時は常に絢の肩に乗っている。
子猫ほどの大きさで、霊体のためあまり重くもないので絢もその状態に慣れてしまった。
周りから見たら小動物を体に乗せている変な人になってしまう。誰も見えてないけど。
でもこれはこれでペット――それも会話が出来る超優秀な――が常に身の回りにいるので楽しいくらいだった。
念話を使えば独り言を呟く必要がないし、これってすごく得じゃない?
《絢》
「えっ、何?」
いつの間にか琥々は絢の頭に移動していた。道理で声が上から聞こえてくるわけだ。
「どうされました神楽坂様」
「へっ? ……って中伊さん!!」
絢は突然目の前に現れたダンディーな人物に驚いてしまった。
「いいいい、いくきゃらそこに!?」
「今さっきでございます」
噛んだ、だが意味は伝わった様で安心した。そしてスルーしてくれたのが何よりありがたかった。
「長い間そこに立っておられたのでどうしたものかと」
整えられた男らしい顎鬚を持つ中伊さんは絢に笑顔を向けてくる。
中伊さんはこのユートピアの管理人であり、ホテルで言う所の総支配人の位置にいる人。
何百人というユートピアの住人の一人一人を把握し、ロビーを降りると必ず顔を見ることが出来るという凄腕の人である。
何でそんなことが出来るのかと聞いても、「当然のことでございます」と、それしか返ってこない。
そんな中伊さんは出会ってまだ数日しか経ってないにもかかわらず、すでに絢の顔まで覚えているのだ。
一体頭の中がどうなっているのかが知りたい。
「あ、いえ。何でもないです」
「左様ですか、お荷物の方お持ちしましょうか?」
中伊さんは左手を差し伸べてきた。
「いえ、これぐらい大丈夫です」
流石にそれは頼めない。荷物を持ってもらうなんてまるで中伊さんが絢の使用人みたいじゃない。
「左様ですか。なら一つお言葉をよろしいですか?」
「はい?」
「念話はあくまで発声しない会話でございます。使い分けをした方がよろしいかと」
「え?」
「さぁ中へ入りましょう」
唖然とする絢をしり目に、中伊さんは玄関の自動ドアを先に開けていてくれた。
「道理で私と目が合ったはずだ」
頭の上にいる琥々が驚いた様に呟く。なるほど、この人もこっち側だったのか。




