第二十五話
「あ~~やっ!!」
「ふわっ!?」
数学の授業が終わり教科書をしまっていると、急に誰かが絢に後ろから抱きついてきた。驚いて手に持っていたノートを落としてしまう。
「ちょっと、沙耶ちゃん何?」
若干不機嫌そうに言う。だがこの親友にはそれが通じないのか、それとも完全に絢が怒っていないという確信があるのか、沙耶は絢の首に腕をからめてきた。
「まぁまぁそう言わないでよ。授業終了五分前に登校してきた絢さん」
面白そうに沙耶は饒舌に語っている。
「何があったのか知らないけど、苦手な数学の授業に遅刻するなんて自殺行為だよぉ。成績落ちちゃうよぉ」
片方の手を絢の首に回し、もう片方の手で絢の頭を小突く。これをいじられているというのだろう。
「その通りです。なので、その左手に持っていらっしゃるノートを貸していただけたら光栄です」
申し訳ない気持ちをたっぷり込めて懇願した。
シャワーを浴びた絢は制服に袖を通した後、直ぐに出かけようとした。しかし改めて見たリビングの荒れ果てた姿に絢は頭を抱えた。
冷静になって考えてみれば絢は人の家を勝手に物色して更にそこから荒れ狂い色々なものを吹き飛ばし、お世辞にも整っているとは言えない空間を作り出していたのだ。
自分の行った行動の軽率さが身に沁みた。倒れたものは直したが、壊れたものは見ないことにした。
そしてあれやこれやとしているうちに時間が瞬く間に過ぎて行った。それで遅刻、情けない。絢のその言葉が聞きたかったとばかりに沙耶はにんまりと笑い、ノートを絢の机の上に置いた。
「交換条件」
さっそく開こうとした絢の手を沙耶が制した。交換条件、良い気はまるでしない。
「昨日の夜は誰と帰ったんだい?」
やっぱり知っていたか。しかも先程よりいやらしい目つきで聞いてきた。それでも耳打ちする様な小さな声だったのは沙耶なりの気配りだろう。
ここはいっそのこと沙耶ではなく他の人に借りようかと思いはしたが、それをすると後が怖い。それにここでこの質問をしてくるということは「逃がさないぞ」という沙耶の意思表示。
それからは本当に逃げられないことは、入学してこの二カ月でよく理解していた。
「紀来圭とだっていう情報があるんだけど」
絢はゆっくりと頷いた。
「ほほぅ。それはお早いことですな」
「ごめん沙耶、それ以上はちょっと……」
はっきり言って避けたかった。沙耶が聞きたいのは絢と圭の関係。それは答えられる、付き合ってはいない。
しかし、絢は圭のことを口に出すのをためらった。心の整理がついていないとでも言おうか、絢はそれが何であろうと圭に関することは避けたい気分だった。
絢の対応に、沙耶は笑っていた顔を止め、しばらく絢を見てから……また笑った。それから、沙耶は圭の名前を口にしなかった。
「そう言えば天狗の新情報聞いた?」
「何かあったの?」
「なんか昨日の夜、どこかのマンションの一室が爆発したんだって」
「え?」
なんという追撃だ。その一室は紛れもない、絢の部屋だと思われる。爆発、確かに爆発という表現も使えないことは無い。天井は文字通りに吹き飛んでるし、室内はもうぐちゃぐちゃだ。確かに騒ぎになってもおかしくはない事件だ。
でも、あれが天狗の仕業?
「でもなんか信憑性がない情報なんだよね」
「どういう事?」
「九時ごろに大きな爆発音がしたらしくて、近所に住んでる人が外見ると、内部が丸見えの部屋があったんだって。こう壁が吹き飛んだみたいな」
やっぱりベランダ吹き飛んだのか……
「それでその人が急いで外に出たんだけど、そしたらどうなってたと思う?」
「え?あ……ええっと」
突然話を振られて慌ててしまった。自分の部屋を他人事のように語るにはどうしたらよいか、という問題が頭を駆け巡る。
「どうなってたって、すごい事件になってたんじゃないの?」
夜中に爆発音が響けばそれはもう大事件だ。なんとか普通の思考回路に接続することが出来た。だが沙耶は首を横に振った。
「事件も何も、ちょっと目を離した隙にその爆発跡らしき部屋の壁が直ってたんだって」
「あれ、ごめん。途中までは付いていけたんだけど、最後の部分だけ全然理解できないよ」
「だから、爆発なんてありませんでした、壁なんか壊れてません。そう言ってるみたい壁が直ってたんだって」
だから信憑性がない、と沙耶ちゃんは言ったのか。何もなかったように復活した壁。だが大半の人が復活という表現より、元から壊れていなかったのではないかと疑うだろう。
目の錯覚、見間違い。噂は立つだろうが、すぐに風化してしまいそうな物だ。
そう、当事者たち以外は。
その事件現場は絢の部屋で間違いはない。沙耶もあまりこの話題には興味がないらしく、「なんか天狗らしくないね」と言っている。
もしほんの少しでも首を突っ込めば、その部屋が絢の部屋だという事に沙耶は辿り着くだろう。だからこそ、沙耶センサーが働かないことに感謝した。
だがこの話は絢の記憶が現実だという事の裏付けにもなった。昨夜の出来事は確かにあったのだ。絢の部屋は確かに吹き飛んだ。でも壁が直っていたというのはどういうことだろうか。
鮮明に覚えている絢の部屋という名の瓦礫はちょっとやそっとで直る被害では無かった。
それを一瞬で。
その間に何が起こったのか。
聞くしかない。
誰でもない、紀来圭に。
決意した瞬間、心の中で何かが蠢くような気がした。あの洞窟に感じたものに似た感覚。これ以上は関わってはならないという自分自身を抑制する想い。
今、明らかに圭を避けようとしている。
でも、それじゃあ今日からどうやって生きて行けばいいの?
どちらの家に帰ればいいの?絢の家?それとも圭の家?
その時、次の授業の始まりを告げる予鈴が鳴り響いた。
「次現国かぁ。眠いなぁ」
大きく背伸びをしながら沙耶ちゃんは自分の席へと戻って行った。絢はその姿を笑って見送る。昼休みに一組へ圭を訪ねてみよう。
そう決意して、絢は早速沙耶ちゃんの数学のノートを写すという内職を始めることにした。
現国の先生御免なさい。




