第二十二話
「それじゃあここまでで大丈夫です」
圭たちは絢が下宿している建物に着いた。三階建ての白い建物で、入口はオートロック付きの扉、セキュリティーはしっかりしている。親に越境を反対されたということだったので、親もせめて安心できる所に住んで欲しいと言われた。娘思いの良い両親で、高校から少し遠いというのが悩みの種だった。そしてそのせいでストーカー被害に逢っているのだから災難だ。
「まぁオートロック越えた所に待ち伏せなんてないだろうからな。ここで退散させてもらう」
そしてここは女性専用、男が易々と入れる場所ではない。一階は完全にガラス張りになっており、二階は飛び越えるにしては高すぎる。つまり人目につかないで建物に侵入するには、どうしてもオートロックを越えなければならない。
「今日は本当にありがとうございました」
絢は丁寧にお辞儀をする。
「言っただろ、乗りかかった船だ。それに困った時はお互い様だ」
圭としても確認したいことがあったわけだし、迷惑だとはこれっぽっちも思っていない。逆に断られたらどうしようかと思っていたくらいだ。
「それで、あの。これっていつまで続くんですか?」
「あっちがボロ出すまでだろうな。最終的にはこっちから何か仕掛けることになるかもしれないし。あぁでも嫌だって言うんなら今日で終わりになるんだが」
「い、いえそういうわけでもないです」
絢は首を激しく振った。そこまで否定されるとこちらとしては若干恥ずかしくなる。
「そうか、それじゃあ。明日も同じ時間でいいか?」
ハイ、と答えた絢に軽く手を振り、俺はそのまま体を半分回した。後ろでまた「ありがとうございました」という声が響く。圭はその言葉に対してわざと無視を決め込んだ。
その後扉が開く音がした、神楽坂が建物の中に入ったのであろう。さっきの質問、圭は聞き方が悪いのは理解している。ああ聞かれては絢の性格上断ることが出来ないのは分かっていた。
その上で圭はあの発言した。なんとか絢との関係は持続させなければならない。そうでなければ今までの行動が全て無意味になってしまう。あくまで自然に、不審に思われない様な行動を心がける。あと二日、待てばいい。
それで全てが終わる。
「おっと」
下を向いていた俺は前から歩いていた女性とぶつかりそうになった。紅いコートを羽織った黒髪美人。女性も前方不注意だったのか、圭の存在に驚いた顔をした。
「すみません」
だが女性は、圭の顔を一瞥すると何も言わずにそそくさと絢の家の方へと歩いて行ってしまった。部屋を借りてる人なのだろう、特に気にすることもない。
「さて、そろそろ帰るか」
そう、気を抜いた瞬間。
圭は戦慄した。
ドアノブに鍵を差し入れ、絢は玄関を開けた。広がるのはこの二カ月見てきた我が家。両親が探しに探した安全な部屋だ。少し高校から遠いのが痛いところだが、そこを差し引いても近くにスーパーやコンビニもあり、さらに建物内にコインランドリーも甘美なので文句は言えない。
絢は制服を脱いで部屋着に着替えることにした。
「あ!」
ブレザーをハンガーに掛け、下着姿でリビングに来た絢の目の前に飛び込んできたのは黄色のパーカーだった。昨日は服を借りたまま帰ってしまった。だから今日洗濯をして返そうと思っていた。
すっかり忘れてしまっていた。妹さんに悪いことしたかな。会うことはできなかったので、服を借りることに本人の許可は取っていない。
「別にそんなことで怒るやつじゃない」と圭は言っていたが、こういったものは返せる時に早めに返した方がいい。絢は明日の用意としてこのパーカーを綺麗に畳んでバッグの中に入れることにした。
「開けろ!」
バッグに手をかけた時、大きな声が聞こえた。続いてガンガンという打撃音が聞こえる。玄関に誰かがいる、出なければならない。だがまるで取り立ての様な喧騒の人物に、恐ろしさを感じないわけがない。幸い鍵はかけてあるため入ってくることは無い。
そもそも声の主は男だった。ここまでは勧誘すら入れないオートロックがあるはずである。通れるのは住人の関係者か管理人ぐらい。だが隣近所とはトラブルなどは無く、管理人さんに迷惑をかけているわけではないと思う。
「俺だ! 紀来だ!」
その声に安堵すると共に、新たな疑問が生まれた。何故圭がここに? オートロックはどうしたのか? だが考えていても仕方がない。どうやら扉の向こうの圭は相当焦っている様だ。今の騒ぎはさっきまでの圭とは同じと思えないほど騒々しい。絢は手に掴んでいたパーカーを着ると玄関に急いだ。
「無事か!」
開口一番、圭はそう叫んだ。だが何の事だか分からない絢は首を傾げることしかできない。
「一体どうしたんですか?」
「話は後だ! 速く中ッ!」
切羽詰まった表情の圭は一瞬左を向き言葉を途中で切ると、まるで飛び込むかのように玄関に入って来た。同時に絢の世界も反転、上下が逆さまになってしまう。
「えっ?」
圭はそのまま絢の体を抱きかかえ、部屋の中に進んでいく。何が何だか分からない、圭は今何をしているのか。下手したらまたからかわれているのかもしれない。
でもこれは冗談にしてはあまりにもたちが悪すぎる。
「えぇ!?」
そして思考の途中で絢は浮遊感を味わった。圭は絢をベッドに放り投げたのだ。絢の体は軽々と宙を舞い、ベッドの上を転がった。壁に背中を打つ。
「な、な、な、なんですか!!!!」
直ぐ様体を起こして反論する。流石にこれは冗談ではすまされない。あまりのことに混乱していた絢の頭でもそれは理解できた。
「伏せろ!!」
言葉と同時に圭は絢の頭をベッドに押し倒した。頭が激しく揺れる。まるで荒波に飲まれた船、積乱雲に突っ込む飛行機に乗っている感覚だ。簡単に言ってしまえば気持ち悪くなってきたということ。不意打ちに次ぐ不意打ちに絢は成す術がなかった。
数秒後、圭は絢の後頭部からゆっくりと力を抜いた。絢は顔がベッドに埋まっていたため、その隙に不足した酸素を補うように大きく息を吸った。否、これから始まる怒涛の様な圭に対する罵声のための言わば準備である。ぶつける言葉は数多くある、順番なんて関係ない、思ったまま口にするつもりだ。
絢は勢いよく顔を上げる。そして目の前にいるであろう圭に言葉を浴びせるために口を大きく開ける。
「…………」
絢は言葉を発することが出来なかった。開いた口は本来の役割を遂行せず、目的は変わり唖然を表現するための表情の一つになってしまった。
目を疑った。部屋が半分しか存在していない。焦げくさい匂いが充満していた部屋は原型を留めていなかった。厳密に半分と言うわけではない、玄関から入り、正面に位置するベランダ、それと天井が跡形もなく消え去っていた。頭上を見上げれば先程まで見ていた夜空に、星々が燦然と輝いている。これは粋な演出というわけではない、文字通り天井が無くなったために起こった現象だ。
その現象のためか室内――現在は屋外とも表現できる――には数多くの瓦礫、それと黒い跡が残っている。
匂いからして焦げた様な跡だった。黒い跡は玄関からまっすぐ破壊されたベランダがあった場所まで伸びている。この黒い跡が何かしらの原因なのだろうか。
幸い絢がいたベッドは玄関から死角になっており、黒い跡がベッドの周辺に与えた影響は少ない。
それは圭が絢をベッドに放り投げたからで……
そこまで考えて絢は圭が目の前にいないことに気づいた。この衝撃で吹き飛ばされてしまったのか。
いや、それはない。圭はついさっきまで絢の頭を確かに抑えていた。その感触はまだ後頭部に残っている。
なら圭はどこに?
そう思い体を動かそうとする。
……動かなかった。
絢の命令に反し絢の体は全く動こうとはしなかった。それだけでなく体は勝手に横へと倒れていく。同時に感じた事のない虚脱心が襲う。
こんな時に何で……。
逆らうことが出来ずに絢の目の前は暗闇で覆われた。




