その四十一
目が覚めた、という自覚によって仁太は自分が今まで気を失っていたという事実を知った。
戻りたての意識は靄が掛かったようにぼんやりとしていて、開かれた目に映ったのもまた不明瞭なものだ。ぼやけすぎた視界はモザイクを掛けた映像などよりも荒く、仁太にわかったのはここが水中でないことと、ここが暗い場所であること、そして誰かの顔が見えるということだ。
「あっ」
視界に映っている何者かが言葉を発したようだった。耳もまだ本調子ではないのか、テレビで聞く加工された音声のような不自然なものに聞こえた。
声は続く。
「目、覚めたんですね。良かった……間に合ったみたいでなによりです」
高い声に聞こえることから相手は女性だと推測できたが、確証はない。自分を助けてくれたのが彼女なのだろうということは理解できた。
何か返事をしなくてはと思うものの、回転の鈍った頭では即座に返答が思いつかず、仁太は回答を考えるのに少しの間を要した。
「あ……ありがとうございます。助けてもらったようで……」
相手はどのような人物かわからない上に恩人のため、なるべく丁寧な言葉を選んだ。
すぐさま来ると思われた返答は、意外にも間を開けてから返された。
「いいえ。ところで、身体の調子はどうでしょうか? 強化系術式の反動で弱っていたようなので、回復力補強の術式で打ち消しを試みたのですが」
「頭がまだぼんやりしてます。それと目と耳が上手く機能してないみたいで、身体はさっぱり動く気配がないです」
「……そう、ですか」
そこで声の主は言葉を一旦切り、
「完璧に打ち消すことはできなかったみたいですが、そのうち良くなるはず。とにかく生きているようで良かった」
そうして、彼女は再び言葉を切った。
視界がボヤけ、さらに身体の感覚も戻らない状態では、声の主が何をやっているのか仁太にはわからない。
そうして、無言の時間がしばし続いた後、再び口を開いた。
「ところで……その、少し尋ねても良いですか?」
「あ、はい。上手く答えられるかわかりませんが……それでよければ」
よく考えもせずに口が動いてしまったが、冷静に考えてもこの返答には問題がないと仁太は判断した。
相手は命の恩人だ。多大な恩があるのだから、質問の一つや二つに答える程度、お安いご用である。
頭が上手く働かないこの状況では判断能力も鈍っているが、仁太には答えて困るような知識は特にない。仮に危険な質問、例えばパステパスの防衛システムの穴のような情報を尋ねられたところで知らないものは答えることができないのだ。
「では、あなたがここに来た理由を教えていただけませんか」
「ここに来た理由?」
このような所にいる理由。普通の質問に思えた。
「ちょっと人を助けに……」
我ながら変な回答だな、と遅れて気づくも、声に出してしまった以上は後の祭りである。改めて頭の回転の鈍り具合を思い知る。
「それはどんな人?」
「女の子です。お世話になった女の子」
「一人で、ですか?」
もしかしてこの声の主はパステパスの兵なのでは、などと思いつつ、仁太は回答を続ける。
「いえ。複数です」
「複数……あの、その人達も、その女の子のお世話に?」
「そういう人もいるかもしれません。でも、そうじゃない人もいたはずです」
「金で雇われた、ということですか」
「そういう人達じゃないですよ」
多分、と仁太は心の中で注釈を加える。
「だったらなぜ……」
「その子のため、だそうですよ」
「女の子のため……?」
「俺がその子を助けることに意味がある、そういうことらしいです。本当にその子が望んでいるって保証はないけど、あの人達はそれがその子のためになると思って、そうしてくれたんです」
女の子、セナリアラ・イアラが信じた勇者。今一度、仁太がセナを救い出すことで、彼女の抱いた勇者と言う名の夢を守る。それが徳郎たちの目的。
恐らく、他人が聞いたら何の妄言だと鼻で笑ってしまうような、そんな屁理屈のもとに集った協力者たち。仁太の知らない協力者たちも、未だ数多くいるという。
「よくわからない理屈ですよね……はは」
こみ上げてきた恥ずかしさを紛らわす様に仁太は力なく笑ってみせた。が、声の主の反応は意外なものだった。
「わかる……気がします」
「え……?」
「いえ。しかし、なぜそこまでするのです? このような事態、島将に任せておけば解決することでしょう。なぜわざわざ、相手が喜ぶかもしれないというだけの理由でこんなことを?」
「なぜ、って……」
これもまた意外な質問だった。女の子の"ために"と言ったのだ、頭の働きが悪い今の仁太にだってすぐに分かることだ。
「そりゃあ、みんながその女の子のことが好きだから、でしょう?」
「すっ!?」
「あ、好きって言ってもあれですよ、異性としてではなく、ご近所さんとしてとか、友だちとして、みたいな」
「へ? そ、そういうことですか……」
「?」
相手の変わった反応を不思議に思うも、仁太は次の言葉を考えることに集中する。
時間経過とともに頭の回りは良くなっているように感じる。視界のほうも、当初よりは若干ではあるものの良くなってきていた。恩人の語る通り、このまま行けばそのうち回復するだろう。
「でも、それって容姿がいいから気に入られてるだけとかでは……。エルヴィンというのは生まれ持って人に好かれる容姿をしているのですし」
「いえ。単純に良い子なだけですよ。明るくて、気がきいて、仕事もできて。……容姿も少しはあるでしょうけどね。そういうの好きそうな奴、いましたし……」
「明るくて気がきいて……。あなたもそういうところを気に入ったのですか?」
「えーと……、俺の場合ちょっと訳ありで」
言うべきかどうか、その判断に少し時間を要した。結局、隠す理由はないという結論に達し、仁太は言葉を続けることにする。
「その子について、深く知る機会があったんです」
「……深く、ですか」
「明るく振舞ってるその子が、実は内気な性格だと知ったんです。でも、彼女は明るく振舞おうと、本来の自分にフタをした……」
「……騙された、そう思ったと」
「そうじゃないです。逆に……憧れたんです」
「憧れ……?」
あの時、仁太の中に生まれた幾つかの感情。その中の一つは、紛れもなく憧れだった。
"なりたい自分"になろうとする努力。仁太ができなかったそれを、セナは孤独に続けてきた。
そんなセナに憧れた。あのようになりたいと思えた。仁太がここに来た理由の一つがこの憧れだった。
「尊敬、でもいいです。とにかく彼女は、俺のできなかったことをやってのけた人なんだってわかった時、俺は思ったんです。彼女を助けに行きたい、と。彼女と並べる何かを成し遂げた時、俺はきっと自信を持てる。その自信があれば俺は変われる……彼女のような、強い人間になれる。そう思っていたんです。だけど……」
そうはならなかった。
なぜならば、仁太は失敗したからだ。
「結局ダメでした」
「ダメ?」
「俺はあの子を助けるための最後の仕上げを失敗したんです。絶対に失敗しちゃダメだったのに……俺は……」
赤の層。術法が使えず、スタンガンナイフも効かないであろう相手を捕らえるという最後の仕事を、仁太は自ら引き受けた。
自信はあったのだ。ダムダの肉体強化術式さえあれば不可能ではないと、己を過信していた。根拠などどこにもなかったというのに。
怒りがあった。セナをあんな目に合わせたライティルを、決して許してはならないと憤っていた。
だが焦りもあった。ここで自分がやらなければ、という意地汚い功名心にも似た感情だ。
その結果がこれだった。
「失敗……」
恩人が呟いた。
その言葉に、仁太はハッとする。こんな後悔を語ったところで何にもならないと。これは尋ねられていることではないのだから。
話題を変えるべきだ、そう思ったが、恩人に先手を奪われることになった。
「ところで目と頭の調子はどうですか? そろそろ良くなってきたと思うのですが」
「え……あっ、そう言われてみれば……」
頭の中の靄がさっと引いていく感覚がする。視界も急激にノイズが取れ、段々と鮮明さを取り戻していく。
「凄い……。こんな簡単に反動が引いていくなんて」
「肉体強化に比べ、思考と視覚の強化はあまり酷使していなかったようなので。それに、」
頭の正常化と共に、聴覚も鮮明さを取り戻していく。今や恩人の声は女性のものであると断定できるほどにクリアに聞こえる。
そして、通常運行に戻った頭は、今までの会話の記憶の中に多くの違和感を見つけ出していく。
──なぜ、この転移扉の傍に人がいるのか
──なぜ、この女性……否、少女はこのようなことを尋ねるのか
──なぜ、一言もエルヴィンとは言っていないのに、この少女はセナがエルヴィンとあると知っていたのか
「それにエルヴィンの魔力は他の人間に比べて優れていますから。回復術式の効力も一味も二味も違います」
──なぜ、この少女はセナと同じ声をしているのか
「ねえ、勇者様」
もはや視覚情報は正常なものへと完全に戻っていた。だから、仁太は言葉を失う他になかったのだ。
「助けたかった女の子って、こんな顔ですか?」
ここで区切るとホラー展開に見えなくも…?