その二十六
手にした探知器の針が微かに揺れている。揺れの正体は船から伝わる波の揺れではなく、もっと小刻みなものだった。
ジルベン丸の一室。楠木仁太は刻一刻と迫る出番を待っていた。
部屋の中心で棒立ちする仁太の隣には椅子と机があるのだが、彼はあえて立つことを選んだ。というよりも、落ち着けず、座る気分にはなれない、と言ったほうが正しい。
パステパスを発ち、目的地である機海賊団第五部隊拠点と目される島を発見し、ジルベン丸が洋上待機に入ってからどれほどの時間が経過したのか、仁太は知らなかった。
すでに一時間経ったような、まだ四半時しか経っていないのか。体感時間は緊張によって狂いに狂い、一分が何十倍にも引き伸ばされているような錯覚さえ覚える。
時折、島からするのだろう、爆発音と思しき音が扉の隙間から部屋の中へと入り込んでくる。その都度、仁太は心臓が跳ね上がるようなショックに襲われる。
彼は、この土壇場で恐怖していた。
「よう、準備はどうだ? 勇者殿」
不意に扉が開かれ、一人の鳥人が入ってきた。突然声をかけられ、仁太の肩がビクリと震える。
入室者は船長ドウヴィー・ジルベンだった。島に到着した頃、彼は風読みの副作用で船酔いして顔面蒼白になっていたが、今はそのような様子は見られない。
「ドウヴィーさんですか……」
「ははは、なんだなんだ、しっかりビビッてんじゃねえか」
無遠慮な物言いと共に、ドウヴィーは仁太の隣の椅子に腰掛けた。先ほどまでの酸っぱい匂いが今はしないことに、仁太は内心ホッとした。
「入ってくるならノックくらいしてください。心停止で死ぬかと思いました」
「そりゃ困る。船の上でお前に死なれたら俺は他の連中に顔向けできないからな」
仁太のくだらないジョークに、ドウヴィーがくだらない返答をする。
突っ立ったままの仁太にドウヴィーが着席を促す仕草を取ったので、仁太は黙って従った。
「で、どうしたんです? いまさらになってブルってるお調子者を笑いにでも来ましたか」
「まさか。様子を見に来ただけだ。まさかビビってるとは思ってなかったがな」
「……」
「まあそう落ち込むな。笑ったのは悪かった」
「でも、情けない糞ガキだ、とか思ってるんでしょ?」
「いいや。むしろ安心したくらいだ」
きっぱりとした口調でドウヴィーは言った。直前までのふざけた様子は消え、この発言がジョークや嫌味の類でないことは明白だった。
予想外の返答に面食らったのは仁太だ。
「え?」
「安心したと言った。恐怖を感じる、それはすなわち正常な証だ」
ふっと表情を和らげ、ドウヴィーは励ますように言葉を続ける。
「お前、こういうことは初めてなんだろ? だったら怖くないってほうがどうかしてる。俺が心配してたのは、お前が恐怖すら感じないほどに麻痺してるんじゃないかということだった。今朝のお前はどうも、高ぶらせた感情で恐怖をごまかしているように見えたからな」
「ええ、まあ、はい……すみません、朝は調子乗ってました」
「どうせ徳郎にでもそそのかされたんだろ。できるできる、お前は今こそ勇者になるんだ、とか何とか言って。あいつ、人の背中押したがるくせに加減を知らないからな」
「す、凄え、大体あってる……。よくわかりましたね」
「あいつのやりそうなことはよーくわかってんだ。付き合い長いからな。だからな、あいつに悪気がないってのも知ってる。今回もあいつなりにお前を励まそうとした結果だから、悪く思わないでやってくれ」
「わかってますって。それに、これは俺がやりたいことでもあるんです。出来レースでも何でもいい、これをきっかけに俺は自分を変えたい。今度こそ、誰かを救ってみせるんだ……」
と、突然仁太の背後から衝撃が襲ってきた。それがドウヴィーの腕による一撃だと気づくのには少しの間が必要だった。
「いっ、つー……。な、何するんですか!」
「暗すぎんだお前。気負いすぎ」
それは心底呆れたような声音だった。
「恐れ知らずも駄目だが、そういうのも駄目駄目だ。もう少し肩の力抜けっての。言っとくけどな、お前が失敗したって、セナちゃんはベルザルクのやつが助けるだけの話だ。こんなに都合の良い話、めったにないぜ?」
「で、でも!俺は自分でセナを助けなきゃ……!」
「でももくそもねえ。変わるきっかけだかなんだか知らねえけど、死んじまったら元も子もないだろ」
「しかし、島将の命令に背いてまで協力してくれた人の手前、失敗するわけにも……」
「こんなもん全部自己責任だ。大体、何人かは"普段、自分たちに戦う機会を与えてくれないことへの些細な仕返し"なんつーむちゃくちゃな理由で徳郎の話に乗ったんだぜ? お前が失敗したって誰も責めやしねえ。セナちゃんファン連中の動機も知ってるだろ?」
「はい。徳郎から聞きました」
自身の言うことを誰も信じてくれなかった経験から、セナが他人と距離をおいて接しているということに薄々感づいている島民は少なくない。そんな中、奇妙な偶然からセナの言葉通りの条件で出現した仁太の存在は、セナの心境に変化をもたらしたことは間違いなかった。
ある者は仁太を勇者と信じ、ある者は半信半疑ながらもセナの予見者というあだ名を肯定的に捉えるようになるなど、周囲のセナへの評価にも変化が生じ、結果としてセナには変化のチャンスが訪れたと言えた。
このことを言葉巧みに利用し、徳郎は今回の協力者を募ったのだと言っていた。"勇者様"仁太がセナを救う。セナにとって、これほど喜ばしいことはなく、きっと彼女が心を開くきっかけになるはずだと。
「じゃあ問題だ。セナにとって最も喜ばしいことが勇者による救出なら、最も悲しいことはなんだ」
「最も悲しいこと……、あっ」
「気づいたな」
「勇者が死ぬこと……」
「その通り。勇者と呼び慕ったがためにお前が救出に向かい、その末に命を落としたと知れば、優しい彼女は深く悲しみ一人で背負い込むだろう。他人とももっと距離を置いて、下手をすれば誰とも関係を築かないようにすらなりかねない。セナちゃんを慕う人間にとって、これほど悲しい話はない」
「つまり俺は自分のためにも、みんなのためにも、生きて帰らなくてはならない。そういうことですか」
「そういうことだ。なに、気負うことはない。無理だと思ったなら素直に逃げて帰れ。ただ生きてさえいればそれでいい。よほど無茶しなけりゃ死ぬことはないように、腕の立つ奴が護衛に付く手筈だ」
「……わかりました。俺、絶対に生きて帰ります。ここまでしてもらって、死ぬわけにはいきませんからね」
「わかればよろしい」
ニッと笑って、ドウヴィーがもう一度背中を叩いてきた。バン!と小気味良い音が室内に響く。
「それ、痛いです……」
「元気、出たか?」
「嫌というほど」
「よろしい」
おもむろにドウヴィーが立ち上がる。
「先ほど、島内のある一定まで侵攻が進んだと連絡が入った」
「ってことは、もういつでも出撃できたってことですか」
次いで仁太も立ち上がり、支度を始める。
壁に立てかけられたドーナ兄弟作成の防具を装着を行いながら、懐にはサンダバの作った武器を忍ばせる。手は未だにかすかな震えを残していたが、もはやそれを恥とは思わない。
「まあな。死なないように、とだけ伝えたら出てもらうことになってた」
「はぁ…。あの、連絡来る前に済ませておいたほうが良かったのでは?」
「ああ、それなんだがな。俺も本当なら島に着いたらさっさとお前を叱咤激励して、攻略部隊の連中から連絡が来たらすぐにでも送り出すつもりだった」
「何か事情が?」
「ついさっきまでゲロゲロ吐いててなあ。水で口洗って、それからこの部屋に来たら遅くなった」
「……うわぁ」
どん引きの表情で後ずさる仁太。
「ま、まあ良いじゃねえか、過ぎた話を掘り返すのは良くないぜ?」
「聞くんじゃなかったです……。っと、準備できましたよ」
「おう。サイズもぴったりか、流石ドワフル製の防具だ」
丁度その時、扉を開いてウキマが顔を出してきた。
「支度は終わりましたか?」
「おうよ、バッチリだ」
仁太より先にドウヴィーが返答した。それを聞いたウキマは少し呆れたように、
「なにがバッチリですか。誰かさんが船酔いしたくせに"これは俺の役だー"なんて言って譲らなかったせいで大分遅くなってしまったじゃないですか」
「うぐ……。船長相手に遠慮がねえ……」
「当たり前です。まだ間に合いますが、あまり長いとベルザルク様にこのことがバレてしまいます。船酔いのせいで全部台無しになるなんて冗談じゃない」
「わかったわかった、っとに可愛げねえなお前はよ」
バツの悪そうに答え、ドウヴィーは気を取りなおしたように仁太の方に向き直った。
「そんじゃ、ま、行ってこいよ仁太。また後でな」
「はい!行ってきます!」
威勢よく返事を返し、仁太は船室を後にした。
年内更新間に合わなかった…