その三
「仁太」
ランジャと名乗った犬のような獣人に習い、仁太も自身を指さして名乗った。
「ジンタ」
「ランジャ」
互いに指を指しあって名前を呼び合う。それがなんとなくおかしくて、仁太とランジャは笑った。
これから食おうとする相手に名乗ったりはしないはずだ。ランジャから危害を加えられることがないとわかった仁太は、ランジャが空腹であることを思い出した。
助けてもらった礼をするのが筋というものだろうと考えた仁太は、カバンの中に昼の残りのサンドイッチを取り出し、ランジャに渡した。ジェスチャーでこれが食べ物であることを伝えると、ランジャは匂いを嗅ぎ、おそるおそる口にした。一切れ食べ終わると、ランジャは何か言い、興奮気味にもう一切れも口に放り込み、よく噛んでから飲み込んだ。
食べ終わったランジャは仁太に向かって手を合わせ、頭を下げた。なにか言っていたが、「ごちそうさま」か「ありがとう」のどちらかだろうと仁太は思った。
奇妙な恩人への礼も済んだことで、仁太は再び周囲の探索を再開しようと考えた。欲を言えばランジャの家に案内してもらいたいところだが、言葉も通じない相手に頼むこともできず、なにより腹を空かせていたランジャの様子から察するに、彼の住処に食料はないのだろう。そんなところへ押しかけるのは気が引ける。
現状、仁太にはまったくあてがない。さきほどのゴリラ獣人のような獰猛な住民もいれば、ランジャのような友好的な住民もいるということから、とりあえずは優しい住民の集落を探すことが先決だと思われた。幸い、この川に沿って歩いていけば水に困ることはない。まずは下流へ行ってみることにする。
出発の準備が整い、といってもリュックを背負うだけだが、ランジャに頭を下げてから立ち去ろうとした仁太だったが、ランジャあとを小走りで追ってきた。仁太に追いついたランジャは、そのまま仁太の真横に付いて歩いてきた。
仁太がランジャのほうへ顔を向けると、彼は笑顔で答え、手を差し出してきた。おそらく握手を求めているのだろう。仁太がその手を握り返すと、ランジャは歯を出してニッと笑った。鋭い歯が見えて、仁太には少し怖かった。
その後も川の下流を目指す仁太に、ランジャは無言で付いてきた。
時折ランジャの顔を横目で観察したところ、彼の表情には心なしか安堵の色が見て取れた。まるで、心強い仲間ができたかのような顔だ。時折何かこちらに語りかけるように言葉を発してくることもあったが、やはり意味が分からない仁太は苦笑いで答えるしかなかった。
ところで仁太少年はとりわけ賢い部類というわけでもなく、凡庸な知能の持ち主である。そんな彼だが、各言語のイントネーションの違いを感じることくらいはできる。例えるなら、中国語と英語は話し方からして違いがわかる。
ランジャの話を聞いていた仁太は、ランジャの言葉と、ゴリラ獣人の言葉がどうやら違う言語であることに気がついた。この二つはハッキリとわかるほどに区切り方、濁音の量が違っている気がするのだ。
さらに仁太に付きまとい、一向に帰る気配のないランジャ。露骨なまでの安堵の表情。よく考えればランジャは服を着ているが、先程のゴリラ獣人は服を着ていなかった。種族の違いということも考えられるが、もう一つ理由は考えられる。
隣を歩くこの獣人もまた、自分と同じく別の世界からここへ来た、ということだ。
となるとランジャが仁太に付きまとう理由はただ一つ。ランジャは、仁太がこの世界の住人だと勘違いしているのだ。仁太の向かう先に集落があると信じているのだろう。
さてどうしたものか、と仁太は悩む。言葉が通じない以上、この事実をランジャ伝えることは難しい。ジェスチャーで伝えることも考えたが、どんな動作をすれば伝わるのか見当もつかない。
(Uターンしてきた道を戻ればわかってもらえるか?いやでもそれだと道を間違えただけだと思われてお終いだ。立ち止まって辺りを見回してみるとかは・・・やっぱ道に迷っただけにしか見えないか。Uターンを何度も繰り返す?馬鹿にしているのかと思われて食い殺されたりしそうだ・・・ああ、くそ!どうすりゃいいんだ!?)
などと仁太が言葉の壁の厚さを痛感しながら歩いていると、森の終わりが遠くのほうに見えてきた。仁太はUターンするよりも、一度森から抜けてしまうことのほうが先決であると考え、とりあえずこのまま進むことにする。
近づくにつれ、森の外の風景が見えてくる。遠くにあるのだろう、霞んだ岩山が見える。この世界に着いてから初めて森の外の景色が見られると思うと、少し歩く速度が上がった。ランジャのほうも、森の外に興味が有るのか、表情から好奇心が伺えた。
早足で抜けた森の先は崖だった。川は滝となって崖の下へと流れ落ちている。見晴らしが良く、辺りがよく見渡せた。
「な・・・」
先ほど見えた岩山より先に向こうに、火を吹く山が見える。山を流れる赤く光る筋は溶岩だろう。
「か、火山!?」
「─!」
ランジャも驚いたのか、目を見開いて何か言っている。
「どうりで暑いわけだ・・・」
よく見れば火山らしい山が別の方向にも見えた。森を抜けた先に待っていたのは、魔法とは無縁の原始的な雰囲気を持った風景だったのだ。
この時をもって、仁太の異世界像は完全に砕け散った。魔法使いが箒で飛ぶ世界には、とてもじゃないが見えない。ドラゴンあたりが飛んでいそうな雰囲気だ。魔法というよりも、呪術とかが流行っていそうな場所だと仁太は思った。実に偏見にまみれた意見だが、仁太の心が折れかかったのは言うまでもない。
膝を付き落胆する仁太の様子を見たランジャは、仁太がこの世界の住人ではないことを悟ったのだろう。顔に若干の失望の色が浮かんだ。だが、すぐに考え直したようで、仁太の肩をポンと叩くと、ニッと笑いかけてきた。元気を出せよ、とでも言っているのだろう。
「・・・まあ、誤解を解くことができただけでも儲けものか」
気を取り直し、仁太は立ち上がる。よくよく考えてみれば、ゴリラ獣人のような亜人がいるということは、他にも亜人がいる可能性は高い。それがここに長く住んでいる者か、あるいは仁太やランジャのように別の世界からやってきたものかはわからないが。なんにせよ、座っているだけで自体が好転することはなさそうだ。
まずはここの景色から少しでも情報を得なければならない。
仁太はまだ見ていなかった崖の下を覗き込んでみた。崖から落ちた川は、別な大きな川に吸い込まれていた。下までの高さは目測でビルの4,5階と言った感じか。ここから飛び降りるわけにはいかない。
仁太は左右を見渡してみる。なんとかして下の川まで降りれる道を探したところ、ここより遥か左のほうに進めば川に降りれることがわかった。
「一緒に来るかい?」
ランジャのほうに向けて問いかけてみる。こちらの言いたいことをわかってくれたのだろう、ランジャはニッと笑うと仁太の後を付いてきた。