その九
浴場は室内のものはなく、脱衣所を出た先は露天風呂だった。
資材不足や建設の手間を省く目的があったのかとも思ったが、その考えが間違いであることはすぐにわかった。
あえて露天風呂のみにした理由は仁太の眼科に広がる景色だ。
島中の建物が灯す鮮やかな光は絵の具だ。適度に色の散りばめられた島というキャンパスを、この露天風呂から見渡すことができる。
これは山頂からしか見えない景色である。しかし、この景色のためだけに登る住民は少ないだろう。そこで銭湯だったのだ。銭湯という理由を付けることで、人が集まり、この素晴らしい島の財産を、皆に見てもらうことができるようになった。
お湯は確かに人工的に沸かした、ただの水かもしれない。だが、この景色を添えてやれば、ただの湯にも様々なものが宿るというものだ。
美しい眺めにしばし心を奪われていた仁太は、冷たい風に身体を冷やされたことで我に帰り、浴槽へ向かう。
大衆浴場ということもあり、浴槽は大きい。敷地も広く、いくらか浴槽があるようで、わざわざ分けている以上、違いがあるのだろう。
最も手近にあったのは、身体を洗い流すための湯が貯められているものだった。積んである桶の一つを手に取り、湯を汲んで身体に掛ける。ぬるい。
シャワーもなければ、石鹸もない。元居た世界より便利なものもあれば、不便なものもある世界だと改めて思う。
徳郎から受け取っていたタオルで身体を念入りに擦り終え、今度こそ湯船へつかることにする。湯気が凄く、とりあえず視認できる浴槽は三つだ。どの浴槽にも人の姿はないが、湯気の向こうから話し声が聞こえるので、浴場に人がいないわけではないようだ。
湯船の近くに小さな立て札があるのが見える。位置的に、風呂の説明だろう。
しかしぬるい湯をかけたせいでより一層身体の冷えてきた仁太に、それを読む余裕はない。迷わず、近い浴槽へと足を突っ込む。
「っ!?」
熱い。あと数秒間足をつけていたら火傷していたところだろう。
諦めてその隣の浴槽へ、今度は別の足を入れる。
「つっ・・・!?」
これも熱い。最初の程ではないにしろ、仁太の今まで経験した銭湯にはない熱さだ。
ということは、と最初に視認した三つの浴槽のうち最後の湯に軽く指先で触れてみると、これもやはり熱い。
困ったことに、三つとも入れそうにない。
「どうなってんだよこれ・・・」
思わず悪態を吐いてしまう。
「おーい、君」
突然、湯気の向こうから声が聞こえてきた。うっすらと人影が見える。
「こっちにきたまえ」
老年の男性の声だ。辺りを見渡すが、近くにはだれもいない。この言葉は仁太に向けられたもののようである。
声を掛けられたタイミングから考えるに、どうやら先の悪態を聞かれてしまったようだ。誰にも聞かれないと思ったつぶやきを聞かれていたのは、なんとなくきまずい。
かといって声を無視をするわけにもいかず、少々顔を赤らめながらも仁太は声の主のもとへと向かうことにした。
「あっちの風呂は熱かったろう?この湯につかりなさい。こんな爺と一緒でよければな」
湯気の向こうにいたのは、そう言って手招きをする白髪の老人だった。
おそらく獣人ではない。ひょろりとした腕をしたか弱そうな体つきと、柔らかい表情からは優しい印象をうけた。
「あれは一部の獣人向けの湯でな。わしも初めてここに来たときはひどい目にあったもんだ」
恐る恐る浴槽へ足をつける仁太を眺めながら老人が言った。
こちらの浴槽はいわゆる仁太の世界の銭湯でもよくある温度だった。少し熱い程度で、問題なく入ることができた。
仁太が浴槽に肩までつかるのを待って、再び老人が話しかけてきた。
「湯加減はどうかね?」
「良い感じです」
「それは良かった」
そう言って老人は微笑んだ。
「良いところだろう、ここは。景色も良く、湯加減も良い」
「はい、とても。緑の層では、小さなドラム缶風呂でしたから」
「ほほう、緑の層から来たのか」
言葉を切った老人は、どうやら仁太をしげしげと観察しているようだ。視線を感じる。
鋭い視線ではないが、腹のうちまで探られてしまうような、言い知れぬ不安を感じさせる視線だった。
「・・・表情が曇ったな。何か、嫌なことを抱えているね」
嫌な予感は的中した。たったこれだけのやりとりで、この老人は仁太の抱える緑の層へのコンプレックスを見抜いたのだ。
「・・・」
返答に困った。無言を貫くことで、この話題への拒否反応を示す。
すると老人もそれに気づいたようで、「別に、それについて追求するつもりではないよ」と困ったような笑顔を浮かべた。
「なんとなくだが、君が想いを貯めこんでしまうよう人間に見えてな。わしの昔の知り合いに似ている」
「貯めこむ、ですか・・・」
「その表情だ。嫌なことばかりを大きく捉えて、内に貯めこんでしまう。良いことはすぐ忘れるのに、悪いことだけはいつまでも捨てられないでいる・・・今の君の表情は、まさにわしの知り合いのそれだ」
「・・・」
「歳を取ると話し相手が欲しくなってなあ。愚痴でもなんでもいい、良ければこの爺に話してくれないか。わしには若い子の話はわからんが、愚痴ならわかってやれる」
「・・・いいんですか」
「構わないよ。きっと、君も少しは楽になるはずだ」
話すまいと思っていた思い出を、この老人になら話しても良いと思えるほどに、仁太はこの老人に心を許してしまっていた。
誘導されたのは明らかだった。しかし、それを承知のうえでなお、話しても良いと思える魅力が、この老人にはあった。
(話せば楽になる、か)
ランジャに心中を吐露した時、どことなく吹っ切れてしまったのを思い出す。
気が動転していたとはいえ、決して誰にも話すまいと思っていた自分の憂き目を漏らした瞬間、決壊したダムからあふれる水のごとく溢れ出した心の声は確かにランジャ傷つけるものだった。
だが、あの時、自分の心が少し楽になった気がした。ランジャを傷つける一方で、自分は癒しを感じていたのだ。
無意識にそれを理解したからこそ、その後の仁太は自分を責めた。青の層に来て、セナと徳郎と共に過ごすうちは忘れられた負の気持ちは、一人になるたびに仁太の心を蝕もうとしていた。
それを、ここで吐いてしまえと老人は言うのだ。これほど魅力的な提案を、蹴る理由が見当たらない。
「・・・俺は緑の層で、友達に酷い裏切りをしました。神隠しの庭へ望まぬ転移をしてしまった人たちと違って、俺はここへ自ら望んできたんです。事故にあったと思って頑張ろうって、前向きに考えてるあいつに向かって、俺はこのことを伝えてしまったんです。皆が泣く泣くこの世界に順応しようと努力する傍らで、俺だけはこの世界を楽しんでいる、って」
思えば懺悔などというものは初めてだった。
「本当はそんなこと言うつもりはなかったのに、あの時の俺は別のことで気が動転してて、自暴自棄になってて・・・、少しでも自分が楽になるために、腹の中に貯めこんでたものをぶつけたんです。この世界にきて、初めての友達に・・・」
老人は静かに話を聞いていた。
「その後、偶然転移ゲートに巻き込まれて、ここへ来たんです。友達に最低とまで言われて、なのに、こっちの世界は楽しくて・・・許せないんですよ、自分が楽しんでるのが。楽しんでる間はこんな暗い気持ちも忘れられて、でも、少し経つとそれを思い出して。不謹慎な存在だって自覚してるのに、それなのに、楽しんでる自分が許せないんです」
湯船に水滴が落ち、波紋が広がる。
気づけば、頬に一筋、熱い感覚があった。
「こっちに来て知り合ったやつに、こんな世界に来てしまったならいっそ楽しんでしまえって言われました。でも、俺は"来てしまった"んではないんです。"来た"んですよ。だから、あいつみたいに考えちゃいけないんだ、って。軽はずみで来てしまって、更に友達だったやつに迷惑までかけた俺に、楽しむ権利なんてあるわけ無いんです。それなのに、どうしようもなく・・・楽しいんですよ、ここが」
卑怯だ、と思う。まるで性根の腐ったペテン師のようだ。
この期に及んで、落涙など。同情を誘っているようなものではないか。
「この話を誰かにするのが怖かった。誰もが俺を軽蔑すると思ったんです。それで、見ず知らずのおじいさんの好意に甘えて・・・見ず知らずの相手にだからって、初めてこんなことを言って・・・。凄く汚いこと考えてるんですよ、俺。あなたになら、嫌われても問題ない、なんて思ったから、こうして・・・」
ごめんなさい、と一言付け加えて、仁太は語りを止めた。これ以上浴槽に涙を落とすわけにはいかず、一度浴槽から上がり、湯を手ですくって顔を洗う。
終始、無言で話を聞いていた老人は、仁太が顔を洗い終わるのを待ってから口を開いた。
「優しい少年だ」
湯船に戻る仁太は、思いがけない言葉に驚いた。
「・・・え?」
「わしには、今の話のどこが悪いのかさっぱりわからん。君がこの世界へ望んで来たのだろうと、そうでなかろうと、関係ないだろう。君のここでの友人は、この世界を楽しんでいるそうじゃないか。それが答えだよ」
「それが、答え・・・?」
「そう。今の環境に至る過程が大事なのではない。その環境でどのように生きるかが大事だ。君がここへ来なくても、彼らはこの世界へやってきてたはずじゃないか。だったら、君の事情は彼らには何の関係もないことだと思わないかね?彼らが君を恨むのは筋違いだ。彼らの中にもこの世界を楽しむ者がいるのだから、楽しめないでいる者の心の持ちようにこそ、落ち度がある。わしの言う答えとはこのことだ」
「楽しめない者に、ですか。でも、彼らにだって元居た世界への未練が」
「確かにそういう者もいるだろう。だがな、文句を言っても何も解決しない。君の、緑の層の友人は、そんな環境に文句を言っていたかね?」
「・・・この世界でも頑張っていくって」
「その言葉が、その姿が、君には悲観的に映ったかい?」
「い、いえ。あいつなりに、この世界を楽しもうとしてるようでした」
それを聞いた老人は、「だろう?」と微笑んだ。
「それなんだよ。皆、そうやって環境に順応していく。皆、前向きに生きていく。彼らに気を使い過ぎてしまうのが、君の優しさであり、悪いところだ。君は決して悪くないし、君の行為も悪くない」
「で、でも!ランジャは・・・あいつは、俺のことを最低だって」
「そんなことか。おそらく、君の考えている意味と、そのランジャ君とやらの考えている意味は違うはずだよ」
「意味が、違う?」
「ちょうど良い、何故彼が君を最低だと言ったのか、よく考えてごらん」
そう言うと、老人はゆっくりと立ち上がった。
腰を軽くポンポンと叩きながら、老人は湯船から上がる。
「少し湯につかり過ぎたようだ。そろそろ上がらせてもらうよ」
「あの、俺が勘違いしてる、本当の意味って」
「それは君が考えることだ。そうだ、宿題にしよう」
「宿題って、そんな・・・!」
「君自身で気づかなくては意味が無いということだ」
ぺたぺたと足音を鳴らし、老人が去っていく。
追いすがることもできたが、そうしたところであの老人は口を割ってはくれないだろう。そんな気がする。
「自信を持つことだよ、勇者君。君に今必要なのは、自信だ」
老人の姿は完全に湯気の向こうへ消えた。
愚痴を聞いて、励まして、課題を残して消えて行く。まるで仙人だ。
「自信を持て、ね・・・」
一人残された仁太は、湯船で三角座りをして、その言葉の意味を考えた。
本当に意味があるのかどうかさえ怪しい。徳郎と同じようなことを言う老人だ。案外、面倒くさくなって適当にあしらわれただけなのかも知れないが、そうでないような気もする。なんとなく、彼には説得力があるように思えてならなかった。
しかし、彼の真意がどうであるにせよ、だ。
「簡単に持てたら、苦労はしないっての・・・」
愚痴を吐き出し、慰められ、仁太の気は晴れたのは確かだが、それと同時に大きな宿題を貰ってしまったのもまた事実であった。
会話の量の調整をどうすれば良いのかいまいちよくわからなくて苦労します。大杉はしないか、少な過ぎはしないか、可愛げのない高校生と得体のしれないじいさんの会話劇なんぞ誰が見たいのか、などなど。
あとは爺さんの口調なんかも。現実世界のどこに「じゃ」とか語尾に付ける爺さんがいるんだ、と思って考えると、今度は老人と普通の中年男性の口調に差が無くなって。
なんだかなあ。手っ取り早いのは現実世界のご老人方が「○○じゃ」口調でしゃべる時代がまた来ることですが・・・。もしもボックス貸してもらえませんかね