その七
薄暗い部屋に食器を片付ける音だけが響く。
巨大なその部屋には現在、侍女と部屋の主である男がいる。彼女は男の夕食を片付けるためにこの部屋を訪れていた。
料理について二、三言の感想を述べた後、この男は決まって無言になる。そして、窓辺にある椅子に腰掛け、窓の外を静かに眺め出す。その椅子が彼の定位置だった。
男は部屋にいるときは、食事を取るなどの一部を除いた多くの時間をその定位置で過ごす。少なくとも彼女は、男が食事をとっているか、仕事をしているときか、あるいは外出する時以外で、彼が窓辺を離れるのを見たことがない。
そもそも、この部屋には時間を潰せるような娯楽の類が一切無い。この部屋の主は今まで幾度と無く変わってきたが、ここまで私物の少ない者は初めてだった。
侍女から見れば、この部屋は退屈そのものだ。窓から街を眺める男の顔にはうっすらとだが退屈の二文字が浮いて見えるというのに、何故彼が娯楽の品を求めないのかが理解出来ない。
娯楽の品の最たる例は本だ。この青の層には書き物で生計を立てる者も多くいる。外を眺めるよりもきっと楽しいはずである。男の立場ならば、この部屋を埋め尽くすだけの書物を買い込んだところで大した出費にもなるまいに。
「ほほう、あれは・・・」
と、窓から街を眺めたまま男は唐突に口を開いた。
「何かございましたか?」
侍女が尋ねる。見れば、男の顔は珍しく楽しげだ。
「彼女だよ。セナリアラ・イアラ。彼女が、私の知らない少年を連れている。」
「そのことでしたら、私もさきほど同僚から話を聞きました。なんでも、拐われたセナリアラが、奴らの船から連れて帰ってきた者だとか」
「間違いない。"勇者様"だ」
「そのようですね。セナリアラ本人も、そう言ったと」
それを聞いて、男は少し笑い、
「用事ができた。少し出てくる」
「ご帰宅の予定は?」
「未定だ。何かあった時はベルザルク様にそう伝えておいてくれ」
言い終わるやいなや、男は窓からスッと飛び降りる。少し経って、着地音が夜の屋敷に響いた。
食器を片す手を止め、侍女は窓辺に寄ると、
「行ってらっしゃいませ、コーサ様」
屋敷の五階から飛び出していった部屋の主を見送った。
セナの家を発った仁太たちは現在、山の中に居た。。
日は既に沈み、暗くなった周囲を照らすのは、道なりに等間隔で設置されている提灯のような灯りである。提灯を作ろうとしたけどどこかで間違えてしまった、と言わんばかりのこの代物を表現するには、「外国人に忍者を描いてくれと頼んだ結果生まれてしまった忍者のような何か」という例えを用いるのが適切なように思われた。
目的地である銭湯はこの山の上にある。山頂へと向かう山道を、仁太たちは話しながら進む。途中、何人かの島民らとすれ違った。
「何年も前に湯屋を提案した方がいたそうです」
山道を登るなか、会話の流れは湯屋の設立へと移っていった。
「青の層においては、それが有益であるならばあらゆるものが仕事として認められます。他者にアイディアを提供し、新たな職を生み出すというの立派な仕事の一つです。湯屋を発案した方は、ご自身のいた世界のものを参考に、他にもいくらかのものを作ったそうです。この山道にぶら下がる灯りも、湯屋の雰囲気を作るものとして発案されたようです」
言って、セナは手近にあった提灯もどきを軽く叩いた。
セナの言う発案者を仕事で分類するならアドバイザー、あるいは起業家といったところか。
しかし。発案などといえば聞こえは良いが、結局のところ盗作みたいなものだ。自分たちの世界の良いものを適当に見繕い、是非こちらでも作ろう、と他人にけしかけるだけで金が入るのならお安い仕事のように思える。
力もなく頭も良くはなく、といってセンスもなく・・・まるで取り柄のない仁太でも、移植の提案ならばできそうではないか。
などという仁太の考えを見透かしたのだろう、
「言っておくが、これは簡単なことじゃないぞ。世界が違えば、技術が違う。ここにはボイラーもなければ、それを一人で作れるような技術士もめったにいない。自分で学ぼうにも資料がない」
徳郎が言った。
「この世界で銭湯を作ろうと思った人間は過去に何人もいただろうが、それを形にできたのは極わずかだ。第五島ニッククのように温泉を掘り当てたり、第一島エウネスや第二島ドウクスのように加熱術式の使える魔術師を雇って湯を沸かしたり、な。温泉を掘り当てることもなく、かといって銭湯を支えられるほどの魔術師もいないこの島、パステパスで銭湯を実現できたのは、発案者の力だけではない。この銭湯を支える術式を開発した魔法使いの存在なくして、銭湯はありえなかったと言われている」
「てことは、この銭湯は魔法を使って営業してるってこと?」
「そう。毎日決まった時間に発動する術式が、大量の水をお湯に変えているんだ」
「へー。つまり、魔法の上手い使い方を考えるのが重要ってことか。難しいな・・・」
水流操作で湖の水を吸い上げて魚捕りをする魔法使いがいたことを思い出した。大量の量の水を移動させるという大事を起こしておいて、やることといえば無力化した魚の回収というギャップは今考えても何かおかしい。
一見、大振りすぎて扱いづらそうに見えた魔法も、使い方次第では地味なことにも使えるようである。
一人で納得している仁太だったが、しかし徳郎は首を横に振った。
「どうやらまだ魔法使いのことをよく知らないみたいだな。いいか、世界には三つの術法があってだな・・・」
「魔法と魔術と精霊術だろ?知ってるぞ」
「なんだ知ってるのか。じゃあ精霊術師と魔法使いが珍しいってことは?」
以前に緑の層で受けた説明を思い出す。あの時アルミラから受けた説明の中に、それらしい話があった気がする。
「えーと・・・確か、"選ばれた者のみ"が使える術式って話だったかな」
「その通り。ただでさえ数が少ない魔法使いの中から偶然こちらに転移し、さらにこちらの世界で使える魔法を発見した者だけが神隠しの庭で魔法使いを名乗れるんだ。珍しいなんてもんじゃない」
「たった一つの魔法でも使えれば、魔法使いを名乗ることは許されます。もっとも、大抵の方は三つ、四つの術式は扱えますけどね」
魔術師であるセナが補足する。
「つまり。そんな珍しい魔法使いの中から加熱術式を持つ人を探しだし、さらにそれを提供してもらえるように頼み込んで、やっと銭湯完成の第一歩を踏み出せるんだ」
「簡単な仕事だ、俺にもできる・・・なんて思ったりしちゃ、だめですよ?」
「う・・・」
徳郎だけでなくセナにもバレているようだった。
自分は考えが顔に出やすいタイプなのかも知れない、と反省する仁太。
しかし、徳郎たちと話しているとすぐに仁太いじりの方向へと話が進む。とりあえず話題の方向を修正することにした。
「で、その発案者と魔法使いはどうなったんだ?豪邸にでも住んで、この世界でも満足して死んでいったとか?」
「魔法使いの方はいきなり現れて、さっさとどこかへ行ってしまったらしい。発案者のほうも、あまり長くは滞在してなかったとか。金も全額寄付だってよ、凄い奴らだ」
アイディアだけでは食っていけなくなったか、あるいは別の層に興味でも惹かれたのか。いない人間のことは誰にもわからない。セナたちも、人から聞いただけのようだ。
「発案者の方の名前は誰かに聞けば判ると思いますが、魔法使いの方は名乗らずに去っていったそうです」
「十数年前の話らしいけど、あの頃は今よりも機海賊の連中も大人しくって、別の島に渡るのはほとんど安全だったんだ。せっかくならニッククあたりに旅行でもすれば良かったのに、ろくに使わず寄付なんて。欲がないんだか、物好きなんだか」
話も一区切り付いたところで、徳郎の口からまたも聞きなれない単語が飛び出した。
ニッククとは、さっきも言っていた第五島とやらのことだろう。緑の層の十村のようなものが、こちらにもあるようだ。
機海賊というのも、なんとなく察しはついた。
どちらも気にはなるが、仁太はまず、島のことについて聞いてみることにした。
「そういえば、まだ説明していませんでしたね」
仁太の問に、セナが答えた。指先で提灯を突っつきながら歩く彼女は、何度見ても小学生だ。
「青の層にある島のうち、七つは同盟を結んでいるんです。昔は五つの島だったので五島同盟、今は七つになったので七島同盟といいます。広大な海が大半を占める青の層は、もともと赤の層同様の無法地帯でした。そこで、無法者たちから自分たちの島を守るために作られたのがこの五島同盟です。現在は青の層に住み着いている機海賊団を名乗る機械文明人たちに対抗するための同盟となっています」
「機海賊って、さっきセナを捕まえてた奴ら?」
「そうです。彼らは術法文明でもなく、勇者様たちの文明とも違う、機械文明と呼ばれる平行世界から来ました。機械・・・というものがよくわからないので、萌豚様、説明お願いします」
山道で少し息が上がりつつある徳郎だったが、セナに指名されたせいか、いきなり元気を取り戻した様子だった。
「任せてくれよセナちゃん。機械文明ってのは、漫画によく出てくる未来の世界みたいなもんだ。俺の予想だが、機械系の実験がひたすら成功を辿った平行世界か何かだろうな。俺達の世界の何世代も上の技術力を持っていて、神隠しの庭には身体を機械化した奴ら・・・そのまんま、機械人間って呼ばれてるんだが、そういう連中が転移してきている」
「俺が見た奴は手から刃が飛び出てたな」
「義手だ。義手だけだとしたら、そいつかなりの下っ端だな。チンピラかなにかだろう。連中にとって、身体を機械にすることは名誉なことらしい。武士の領地みたいなもんで、地位が高い奴ほど身体の機械化を進めて良いそうだ。四肢が機械の強化人間、身体の大部分を機械にした装甲人間、そして身体を捨てて脳以外が機械となった完成人間だ」
「人間をやめて機械に生まれ変わってるくせに、完成人間を名乗るのか。変わった連中だな」
「だが考え方自体はわりと普通のようだ。普通の悪人、だけどな。暴力を振るって好き勝手をする迷惑な奴ら。そんな奴らが優れた技術力を持っているのが、なにより恐ろしい。半人半機にはロボット三原則は通じないらしい」
未来の不良集団といったところだろうか。技術力がいくら向上しても、悪い奴は出てくるようだ。
逆もある。なまじ技術が高かったからこそ、後進文明と仲良くなることができなかったのかもしれない。
いずれにせよ、青の層には明確な"敵"が存在しているということだけは確かだ。
「ま、俺らの気にすることじゃないさ。そのための七島同盟だ。この島にも十分な戦力がある」
「この島に戦力が?」
「そうさ。七島同盟の各島には島将と呼ばれる大将が一人ずついる。彼らがいる限り、島民の安全は保証されているんだ。・・・今回のセナちゃんみたいな、不慮の事故もあるけどさ」
「あれは仕方ありません。私が一人で浜辺などに行くから、たまたま上陸しようとした機海賊の方々に囚われてしまったのです。私たちの味方になってくれる機械文明の方はまだいないので、私たちと機海賊団とでは技術に差がありすぎます。いくら島将様といえど、全ての事態を防ぐことは難しいのです」
「へぇ・・・」
島を守る者、島将。いわゆる村長のような、この島のトップにあたる人物なのだろう。そしてその責任は、島民の安全を保証すること。
それを聞いた仁太の中に、一つの感情が芽生えた。セナはああ言うけれど、しかし。
とはいえ、これをぶつけるべき相手が、今はいない。つい先程の教訓を活かし、極力顔に出さぬよう、仁太は感情を胸にしまい込む。
と、徳郎が額を腕で拭いながら、
「ふぅ、やっと見えたな」
彼の視線の先には、山道の終わりと、灯りの点った建物があった。
次第に全貌が見えてきた銭湯は、西洋の城と和風の建物を混ぜたようなつぎはぎなデザインをしており、先程の提灯同様、あまり良いセンスとはいえない。
ご丁寧に暖簾まで掛けてある。"ゆ"のような、"Φ"のような、なんとも言いがたいその柄は、"別の言語で書かれた文字も自分の知る言語に変換して目に映る"という言語魔術の幻術機能を以てしても絵、あるいは独自の記号として目に映らないことから、文字として認識されていないことがわかる。
言語魔術の仕組みは"日本語を書いているつもりが、神隠しの庭で使われている言語を書かせる"といったように、被術者の脳を騙して極自然に公用語を使わせることで違和感なく言葉を話し、書かせ、読ませるという催眠術の一種だ。
この術に掛かっている者は「ゆ」を書いているつもりが、知らず知らずのうちにそれに相当する公用語を書かされてしまうことになる。
あの歪な形をした「ゆ」の字らしきものは、その感覚に逆らって書いた結果なのかもしれない。
それだけではない。
和風の雰囲気をだそうとしたのだろう石で囲まれた池と、その中を悠々と泳ぐ鯉とは似ても似つかぬ蛍光色の怪しい魚が泳いでいる。
燈籠・・・のつもりかもしれない、四方に顔の付いた火の灯る石柱は不気味の一言に尽きる。
吊り燈籠の代わりにランタンがぶら下がっているなど不徹底なところも気になる。
「言いたいことは判る」
徳郎に肩をぽんと叩かれた。仁太の考えていることを察したのだろう。二人の日本人の様子を見ていたセナは「?」を浮かべていた。この感情、彼女にはわかるまい。
なんとも言えない気持ちを抱えながら、仁太は徳郎の後を追った。
某アニメのせいで「名もなき侍女」だけで笑えてくるから困る