その二
それは正しく刹那の出来事だった。数メートル離れた位置から跳躍した獣人は仁太の頭上を通り越し、その背後に着地すると同時にナイフを振るった。
仁太が振り向くと、いつの間に現れたのだろうか、二人目の獣人がいた。ゴリラのような強靭な肉体を持った猿人だ。ゴリラ獣人は血の滲む右腕を抑えうめき声を上げた。足元には短剣が落ちている。犬獣人のナイフで手をやられ得物を落とした、といったところか。
「───!───、───!!」
ゴリラ獣人は青筋を立てて怒鳴り立てた。相当頭に来ていることは仁太にもわかったが、何を言っているのかはさっぱりだった。単語らしきものが聞き取れるので、どうやらそれは鳴き声ではなく、仁太の知らない言語のようだ。
対する犬獣人は無言でナイフを構え直す。視線を少しゴリラ獣人の首へと向けた後、相手の顔へと戻した。殺すぞ、ということだろうと仁太は思った。
逆上し腕力に訴えようとしたのだろう、ゴリラ獣人が拳を握り一歩前に踏み出した。が、犬獣人もそれに素早く反応した。ゴリラ獣人が構えた左拳とは逆側に身をずらし、同時にナイフを相手の首もとに突きつける。敵の殴打よりも早く、その喉首をかっ切れる位置を取ったのだ。
大粒の冷や汗がゴリラ獣人の頬を伝う。
「──・・・」
搾り出すように吐き出されたゴリラ獣人の声は怯えがにじみ出ていた。犬獣人は相変わらず無言だ。
ゴリラ獣人が握りこぶしをほどき、ゆっくりと手を下げたのを確認すると、犬獣人は顔を振って「後ろに下がれ」という風な合図をした。素直に従うゴリラ獣人。
無事な左手の手のひらを前に向け、抵抗の意思が無いことを示しながら後ずさるゴリラ獣人を、隙のない視線で睨みつける犬獣人。十分な距離があいたところでゴリラ獣人は少し怒鳴り、樹上へと登るとそのまま去っていった。言葉はわからないが、おそらく捨て台詞かなにかを言ったのだろう。
ゴリラ獣人が完全に去ったことを確認したのだろう、犬獣人は構えを解くと、この一連の出来事をぽかんと見ていた仁太の方に向き直った。その表情は先ほどまでの険しいものでなく、おだやかなものだった。
「あ・・・、ありがとう」
はっとなって、仁太はとりあえず礼を口にしたが、そのあとで言葉が通じないことを思い出した。
一方犬獣人は良いってことよ、といった感じで照れくさそうに笑い手を振った。
「───」
犬獣人が口を開く。やはり言葉がわからない。互いに言葉が通じないことを理解したのだろう、犬獣人はしばし頭を抱え、少ししてから仁太の下半身に目をやり、気まずそうに顔を背けた。そして問題の場所を指差し、何か言った。
言葉はわからなかったが、相手の言わんとすることが理解できた仁太は、恥ずかしさに顔を赤らめながらチャックを閉めた。
犬獣人が中断されていた水飲みを再開したので、その後ろ姿を観察しながら仁太は状況を整理することにした。
さきほど犬獣人が飛び掛ってきたのは、仁太の行為に怒りを覚えたためではなく、仁太の気づかぬうちに背後まで迫っていたゴリラ獣人を撃退するためのようだ。水を飲み始める前に念入りにうがいをするところを見るに、犬獣人も小便を飲まされたことを全く気にしていないわけでもなさそうだが。
となると、この獣人は先程のゴリラ獣人と違って温厚なようだ。ゴリラ獣人撃退後も仁太を襲おうとせず、野放しにしていることから取って食うつもりはないらしい。
(・・・いや、もしかすると、俺が逃げたところですぐに追いつける、ということなのだろうか?)
瞬時に数メートルを跳躍する脚力は驚異的だ。あの機動力の前では、どんなに脚が自慢の人間でも逃げきれはしないだろう。先ほどの攻防の最中に、呆気に取られていた仁太の様子から彼が自分よりも脆弱な生き物であることを見抜いていたとしても可笑しくはない。なにせ服を着て言語を話すだけの知能と、戦闘経験豊富そうな先ほどの立ち回りから判断するに、この犬獣人は生粋の戦士だろうから。
仁太を餌と考えていたならば、さきほどゴリラ獣人を撃退したことにも説明がつく。獲物を横取りされてはかなわないということでゴリラ獣人を襲ったのだ。
つまり、水を飲み終え喉を潤した後に犬獣人がすることは・・・。
と、その時犬獣人が立ち上がり、仁太の方へ近づいてきた。思わずビクッと身体を震わせる仁太。犬獣人の表情は今も柔らかいままだったが、仁太はまるで蛇に睨まれた気分になった。
「ランジャ」
唐突に犬獣人が口を開いた。ビクビクッと仁太の身体が震える。
(な、なんだ、なんて言ったんだ、今!? 「いただきます」?「美味そう」? お、俺食われちゃうの!?)
などと仁太が冷や汗をダラダラと垂らして半涙目になっていると、犬獣人の腹が鳴った。
(ヒィィィ!? やっぱ食う気だ! 俺を!)
恥ずかしそうに少し赤くなった犬獣人の様子に気づきもせず後ずさりする仁太。どうせ逃げ切れないだろうという諦めと、今すぐ逃げなくてはという矛盾した気持ちが身体の中で暴れだした。
一方、その様子を見ていた犬獣人は、仁太の動作に「?」と首を傾げていた。なぜ驚く?とでも言うように。
犬獣人の手が動く。その手で俺を締め殺して静かにしてから食べるんですね!?と今にも泣き出しそうな仁太。だが、その手が仁太へ伸ばされることはなかった。
犬獣人は人のそれと変わらない形の、しかし毛むくじゃらの手で自分を指差し、もう一度言った。
「ランジャ」
それを見た仁太は犬獣人の意図に気づき、その場にへたり込んだ。
「な、名前かよ・・・」