朝海昌司の天秤
朝海昌司が転入したのは中学三年の冬だった。
理由は両親の離婚。母親に引き取られた昌司は二人暮らしをすることになり、元夫の住む町を去るといって聞かない母のわがままに付き合わされて転校を余儀なくされた。
母には親友が三人いた。母は、このうちの一人の住む町を移住先に決めた。元居た町を去ったのは、元夫を避けるという理由よりも、この親友たちに慰めてもらいたかったというのが大きかったと昌司は考えており、実際その通りだった。
受験を控えた大事な息子の事情も考えずに自身の都合を優先させ、挙句被害者面を決め込んで息子にまで慰めいたわることを要求する図太さには子供ながらに呆れ返った。この女が父に捨てられた理由が、なんとなくわかる気がした。
昌司には心に決めた志望校があり、そのための努力は決して惜しまなかった。担任にも落ちる可能性は万に一つあるかどうかと冗談めかして言われるほど確定していた彼の未来は、母の身勝手な行動という万に一つの要素によって打ち砕かれた。
被害者を気取る加害者。被害者を名乗れない被害者。不幸にも昌司には良心があったため、両親に対し強く出ることができなかった。
結果、彼は溜め込んだストレスによって、暗く塞ぎがちな性格となってしまい、仕方無しに入った高校でも一人でいることを好んだ。それが災いして彼はいじめの対象となり、不幸の連鎖に更に絶望した。
計画的に、組織的に行われるそのいじめ活動は、もはや奴隷の調教のようなものだった。
支配者を気取るいじめっ子集団は、孤立している学生を標的として行い、学年全体を射程圏内に収める大規模なものとなった。
当初は決定的な証拠を得られず対策に頭を抱えた教師陣も、やがてこの支配・被支配の構図が学年全域で確立されると、解決する際に生じる責任問題を恐れるようになり、対策を放棄し黙認する流れとなった。
こうなると家族しか頼る相手のいないいじめられっ子たちだが、昌司の母は依然として被害者を主張し続けており、息子の切実な悩みなどには耳を貸そうとはせず、昌司が頼ることのできる相手は一人もいなくなった。
母の助力なしには転校も引越しもでできず、いかに望まぬ高校といえど中退をすることは躊躇われ、結果、いじめから逃れる手段がない。
追い詰められた昌司をまさに絶好の獲物であり、いじめの手は緩むことなく続けられた。
そんな時だった。
「お前らそれでいいのかよ!」
たった一人の反逆者。
「あんな奴らに従うなんて馬鹿馬鹿しいとは思わないのか!」
壁を隔てたとなりの教室から聞こえてくるほどの大声で、打倒支配者を叫ぶ男がいた。
噂に聞こえた、いじめの対象でないにもかかわらず、友人一人と共にいじめっ子集団へと立ち向かい、友人が引きこもった今もなお一人で抵抗を続ける物好きなやつ。
楠木という苗字らしいその男に賛同する者はいなかった。彼に従えば今以上にひどい目に合わせるという脅しを受けたいじめられっ子たちは、戦線に参列することを拒んだ。
他人を哀れんで余計なことをするからこうなるのだと笑う心と、自分の味方になってくれるかも知れない人間の存在に期待する心。二つの心は、互いに拮抗し、朝海昌司はただひたすらに揺れ続けた。
一致団結して抵抗すれば、いじめっ子集団など敵ではないという楠木の言葉は、恐らく間違っていない。
今現在、いじめっ子といじめられっ子の比率は、後者のほうが高い。ならば、数の暴力を行使すれば勝てないことはない。
抑えつけられた感情が爆発すれば、もはやその波はいじめという抑止力などでは止められないものとなり、一瞬にして情勢をひっくり返すことが可能だ。教師も動かざるを得なくなるだろう。勝算は十二分。
だが、それはあくまで一斉蜂起に成功することを仮定しての話だ。失敗すれば、動きを見せた者たちにはひどい仕打ちが待っている。
これは賭けだ。動いてしまえば、とは天国か、地獄の底か。動かなければ、ただの地獄のままで済む。
昌司の心は揺れる。成功と失敗、二つの結果は互いに等しい魅力と恐怖を持ち、心の天秤の上で均衡を保つ。
最初の一人が肝心なのは確かだが、二人目、三人目、と後続がいなければ不成立なのもまた事実。昌司一人では決定打足りえず、あくまで彼は可能性を生み出す役にしかなれない。
立つべきか、立たざるべきか。
葛藤の末、昌司の下した判断は、───YESだった。
朝海昌司が神隠しの庭に転移したのは、一斉蜂起に成功し、全てをひっくり返した直後だった。
これからが楽しい高校生活というところで、その生活はおそらく永遠に失われてしまった。
しかし、彼はこの事態を冷静に受け止め、そして受け入れた。
たしかにこれからの生活には期待していた。友人も増え、性格も以前の明るいものを取り戻した矢先の出来事だ。
ただ、彼の胸には確かな達成感があった。自分だけでなく、多くの生徒の未来を築けたこと。許せない外道たちに、一泡も二泡も吹かせてやったこと。この達成感が、すべてを許してしまう、そんな気分だった。
一つ心残りがあるとすれば、戦友にして首謀者であり恩人でもある功労者、楠木仁太にもっとしっかりと礼を言いたかった。
しかし悔やんでも仕方のないことである。昌司の戦いは終わり、新たな世界での生活が始まったのだ。
あとに残された母がどういう顔をしていてるか、少し気になったが、少しでも迷惑を掛けることが出来たならば、それはとても嬉しいことだと昌司は思った。
楠木仁太は知らない。彼が孤独に戦うその隣のクラスに、朝海昌司の名を持つ少年が居たことを。
朝海昌司は知らない。彼の心の葛藤さえも、平行世界を生む要因足り得たことを。
そして、誰も知らない。朝海昌司の決断こそが、神隠しの庭で出会った二人の世界の相違だということを。
外章としてありますが、実際は1.5章といったところで、一章や二章に含めるとテンポが悪くなるような内容をこうして隔離しているだけです。
その為、これでも一応本編なのです。