楠木仁太の世界
楠木仁太は平凡な少年だった。
特技らしい特技もなく、極端に偏った思想もない。洞察力などに優れているにはいるのだが、本人にその自覚がないため、せっかくの才能が活きる機会は殆ど無い。
ゆえに、彼の人生は平凡そのもので、親も普通、交友関係も普通。なにからなにまで、全て普通な人生だった。
かつて親友の一人を遭難という形で失ったことが、人と異なる点だろうか。しかし、それが彼の人生に何か影響を及ぼしたかといえばそんなことはない。
大した害もなく、仁太の人生は進む。そして、彼が高校に上がったとき、一つの壁が彼を襲うこととなった。
県内有数の進学校に進んだ仁太を待ち構えていたのは、いじめという名の非情な現実だった。
しかしながら、その矛先は仁太に向けられたものではない。全く知らない生徒が、全く知らない別の生徒をいじめている。いじめる側の勢力は日増しに増大していき、それにともなって、被害者も一人一人と増えていった。
そんな中で、仁太には親友ができた。信太郎という名の少年と仁太は意気投合し、はじめの一ヶ月を共に過ごした。
いよいよ中間テストも近づいてきたという頃、仁太と信太郎はイジメの存在を知る。
その手口は実に巧妙で、教師にバレないか、あるいはバレても証拠不足で言い逃れができるかがよく考えられていた。後に知ることになるのだが、イジメ実行犯らの親も相当なモンスター・ペアレントであり、それゆえ教師側は早々に対策を放棄したのだという。
被害者も、共に接点のない、友人の少なそうな者ばかりを狙うことで完全に孤立させた上でいたぶるというやり口だった。
不幸かな、仁太の中に一握りの正義感があったばかりに、彼はこの事態に激怒した。そして、それ以上に信太郎は腸を煮えたぎらせ、二人はこの解決に打って出たのだった。
耐えるなど、高校生という未だ幼い少年には無理からぬことだった。教師にとっては職場でしかない学校も、彼ら学生にしてみれば世界そのものだ。自らの生活空間を荒らされ、怒りを覚えぬのは恥だとすら、当時の仁太は思ったほどに、彼はまっすぐに、その幼稚な行動へと走りだした。
十を超える実行犯メンバーらは、その無謀な妨害者を新たな標的と定め、まずは彼らの心を折ることを選択した。
メンバーらのとった迎撃手段は単純だ。すでにいじめという調教で心を折られかけていた学生たちと、急に仲直りを始めた。当然上辺だけだが、孤独な生活を強いられてきた被害者たちはこの演技にころりと騙され、結果、妨害者である仁太と信太郎はすぐに孤立することとなった。
あとはやりたい放題だ。メンバーらは元被害者らの扇動し、いじめの道具として利用した。
仁太の心が折れるのに、長い時間は掛からなかった。
ほどなくして、仁太は不登校になった。親友である信太郎には何一つの相談もせず、彼は逃げたのだ。
だが、信太郎はそんな仁太に絶望しなかった。必死に仁太を説得し、励まし、いじめ実行犯らの打倒を語った。
いつか奴らもミスを犯し、決定的な証拠を出すに違いない、と。だから、お前もがんばれよ、と。
その言葉と想いに再び仁太は立ち上がる。間違っている奴らを前に膝を折るなど、そんなのは嫌だったから。消えかけていた彼の正義感は再び勢い良く燃え始めた。
悪質ないたずらにひたすら耐え、何度も何度でも教師に訴えかける日々。
そんな日々の果てに掴んだ結果が、実行犯らによる信太郎の妹に対する暴行だった。
イジメに実りなしと判断した実行犯らは、信太郎に妹がいることを突き止めると、数人掛かりでの暴行を行った。正確には、暴行未遂だ。あくまで信太郎を脅すための手段でしかない。
ある意味、捨て身の賭けでもある。自分たちの悪行が少し明るみに出る代わりに、お前の妹の人生を台無しにするぞ、という悪質な脅し。
今まで悪事をひた隠しにしてきた連中が、こんなことをするわけがないと説得する仁太に、しかし信太郎は首を振った。
「1%でも可能性がある以上、安心出来ない。部外者のお前には、家族を案じる俺の気持ちなんてわかんないだろ」
この脅しでは、仁太には実質的な被害がない。それもまた実行犯らが仕組んだ罠ともいえる。なおも食い下がろうと思った仁太は、かつて自分が最初に折れたことを思い出し、思いとどまった。最初に逃げた仁太に、信太郎を止める権利はない。
そうして信太郎は抵抗をやめ、ついには不登校となった。
思えば、信太郎がいたからこそ耐えられた日々だった。親友という片翼を失った今、学校という世界で仁太はただ一人の孤独な存在となった。
もはや仁太に選択肢は残されていなかった。いや、少なくとも当時の彼はそう思っていた。戦い続けるという道を考えることなく、彼は逃げの一手を選びとった。
かつての親友が消えた森。異世界があるならば、そこへ。無いならばいっそ、死んでしまうのも良いだろう。
夏休み初日。ぬけがらのような仁太は、それこそ風にでも吹かれて飛ばされたかのように、あの地へと迷いこむ。