その一
仁太は確かに洞窟を歩いていたはずだった。洞窟の中間地点あたりで、まだ出口までは距離がある、そんな場所を。
しかし、仁太が気づいたときには辺りは森だった。いつの間に洞窟を抜けたのかもわからず、あたかも最初からここを歩いていたような錯覚を覚えるほど、そのワープは自然に行われた。
「ん?なんだ、ここ!?」
ハッとなって辺りを見回してみる。右手には岩山があり、あとは一面、木がびっしりと生えていた。とはいえ、木だけなら人を喰らう洞窟の周りにも沢山生えていた。決定的に違うところがあるとすれば、空の色だ。
「空が赤い・・・」
背の高い木々の合間から覗く空は、仁太が見たこともないほど赤かった。
ぽかんと空を眺めて呆然としていた仁太は、暑いことに気がついた。額に手をやると汗が滲んでいた。洞窟に入る前とは明らかに気温が違う。
上着を脱ぎながら、仁太は次第に落ち着きを取り戻してきた。赤い空、暑い気温。数十メートルの洞窟を抜けただけでここまで変わることは有りえない。
冷静になると、今度はふつふつと実感が湧いてきた。ここは別の世界なのだという実感が。
「ほ、本当に来ちゃったんだ、俺。世界の外に。」
洞窟に入る際に仁太が持っていたのはリュックサック一つだけだ。中には昼飯の残りのサンドイッチ少しと、飲みかけのペットボトル、財布。携帯はどうせ使えないだろうという考えで自宅に、追加の水や食料などを持ってこなかったのは、仁太が思い描いた別世界像が原因だった。
「なんだよここ。思っていたのと全然違うぞ・・・」
一介の高校生・楠木仁太の思い描く異界とは、剣と魔法のファンタジー世界であった。ゲームや漫画に毒された若者としての素直な発想だったが、現実はなんと非情なものだろう。
異世界からやってきたという少年を、現地の住人たちは歓喜の声で出迎える。口々に救世主だなんだと叫び、仁太は無理やり勇者に仕立て上げられる。嫌だ嫌だと言いながらも実はまんざらではない勇者仁太は、潜在的な魔法の力と剣技を駆使して打倒魔王の旅に出る。その旅路のなかであわよくば美少女魔法使いや女剣士と仲良くなって、三角関係全開のラブコメ劇を各地で繰り広げ・・・。
というのが仁太の筋書きであった。現実逃避も甚だしいが、これはこれで彼なりに真面目に考えた結果なのだから仕方ない。
なにはともあれ、こんな人気のない森のなかにつったっていてもらちがあかない。それどころか、食料も水もないこの状況で待っているのは美少女魔法使いやビキニのような鎧を来た女剣士などではなく、無情な死神の鎌か、案内板を持った天使集団かのどちらかである。
まずは水か、あるいは人を探さねばならない。
脱いだ上着をリュックサックにしまい、仁太は辺りを探索することにした。
注意を払いながら歩いてみると、木や草の他にも花やキノコが生えていることや、虫がいることがわかった。しかし仁太には植物や生き物の知識はほとんどなかったため、「たしか婆ちゃんちの裏の山にいそうな虫」「たしか図鑑で見た気がする花」程度で、木にいたっては全部似たようなものだという認識だった。七色の花弁を持つ花も、背中に目を持つ甲虫でさえも、彼にとっては「そこらへんにいそう」だ。
異界らしさを遺憾なく発揮する風景に気づきもせず、仁太は歩き続けた。
2つほど岩山の横を通り過ぎた。高いところに登ったほうが周囲をよりよく知ることができるのだが、どれも切り立った岩肌で、登ることは不可能だった。緩やかな箇所を探すという選択もあったが、岩山では身を隠すことが出来ず、周りから丸見えである。赤い空の世界、どんな化物がいるのかわからない状況でそんな危険を犯すことは躊躇われた。などと考えるわりに、森の探索では平然と物音を立てるなど、どことなく抜けているのが仁太少年だ。
どれくらい歩いただろうか。かすかだが、水の流れるような音が聞こえてきた。
「川かな?」
仁太が進んでいくと、音は次第に大きくなっていき、川が視認できるところまできた。幅は3,4メートルといったところで、流れはさほど早くない。渡ろうと思えば渡れるだろう。近づいて手ですくってみると、水は澄んでいた。やはり水質に関する知識も持ち合わせていない仁太にとって、澄んでいるとはイコールで飲めるということだった。
異世界固有の毒水草、微生物・・・などの不穏な言葉が一瞬脳裏をよぎったが、水も食料も不足しているこの状況下ではどの道飢えと乾きで苦しみながら死ぬ可能性が付いて回る。余計なことを考える余裕など、ない。
すくった水を少しためらった後、一気に飲み干す。祖母の家の近くの川のような味がした。恐らく大丈夫だと、仁太は判断した。
水を安全だと判断した仁太は、次にリュックサックからペットボトルを取り出した。飲みかけのお茶を飲み干すと、空いたペットボトルのなかに川の水を詰めていく。駅のホームでお茶を買う際、250mlにしようか迷った末に500mlを買った自分を褒めてやりたい気分になった。
フタをきっちりと閉めたことを確認し、リュックサックにしまった仁太は、不意に催してきた。小さいほうだ。
一応キョロキョロと辺りを見回してみるが、今まで誰とも会わなかったというのにこのタイミングで誰かと遭遇する可能性は低いはずだ。一思いにチャックを降ろし、誰もいないという開放感からの軽率な判断だが、彼はその照準を川へと定めた。そして躊躇うこと無く、発砲。
と同時に、川下にほんの少しのところ、対岸の茂みから人影が現れた。
その人影には髪がない。正確には髪という区別がない。顔を、首を、腕を覆う毛。そもそも頭の形からして人ではない。犬のような、あるいは狐のような。いわば、獣人。服を着た、人型の獣。
「あ・・・」
ジョボボボ、と酷く間抜けな音が響く。その音に少し遅れて気づいた獣人は、手ですくった水を口へと運びながら顔を仁太の方へと向ける。
目があった。続いて、獣人の手の水が口の中へと吸い込まれていくのが仁太の視界に映った。毛に覆われた喉が微動する。おそらく、飲んだ。
きまずい沈黙が場を支配した。恐らく状況を理解したのだろう、獣人は文字通り固まっていた。
ジョボボボ、と水の音は続く。このような状況下でも放たれた矢を止めることはできなかった。
と、不意に獣人が動いた。体勢を低くし、腰に手を伸ばす。光る刃が見えた。おそらくナイフだろうと仁太は思った。そして跳躍。驚くべきことに、片膝を付いて水を飲んでいた姿勢から、跳躍に移るまではほとんど一瞬だった。ナイフだろう、というのも一瞬しか確認できなかったためだ。
ダンッ、と強く地面を蹴る音。抉れた土が少量舞った。
あまりの速さに、仁太は死の恐怖を意識する間さえなく、ただ目の前にせまる刃を持った獣人の姿に見惚れていた。間抜けにも、社会の窓を開けたまま・・・。