その十
ホルドラントが去ってから、仁太はベットから起きだし、足の調子を確かめてみた。
立ってみても痛みはなく、屈伸をしてみたり、ぶらぶらと振ってみたりしたが特に違和感を感じない。
仁太が部屋を歩き回ったり足踏みなどをして調子をみている間、ランジャは話の整理を続けていた様だった。
足の完治を確認し、仁太がベッドに腰掛けようとしたところで、ランジャは不意に口を開いた。
「えーと、つまり、僕たちは元居た世界に帰れないってこと?」
「帰れるかも知れないけど、多分帰れない。そんな風な言い方だったな」
「そっか・・・」
ランジャは寂しそうに俯いた。
そういえばホルドラントはここへ来た者は突然の転移に巻き込まれたのだと言っていた。ランジャもまた、不本意な転移によってここへ飛ばされたのだろう。それこそ神隠しのように。望んで転移してきた仁太のような存在は珍しいに違いない。
気まずい沈黙が場を支配した。
ランジャに掛ける言葉が見つからない。いや、何も言わないことがこの場合は正解だろう。
これはランジャに限ったことではない。この世界には元居た世界への未練がある者も多くいるはずだ。そんな人たちにとって、仁太という存在はどう映るだろう。自ら世界を捨てた者に、彼らの気持ちなどわかるまい。
「・・・まあ、悔やんだって仕方ないさ」
ランジャは顔をあげた。
「僕だけじゃない、皆がそうなんだ。だったら、今するべきことはこの世界を楽しむこと」
「ランジャ・・・」
「恥ずかしいところを見せたね・・・、だけどもう大丈夫だ、仁太。君だって辛いはずなのに」
「いや、元気になってくれたならいいんだ、それで」
赤の層でもそうだった。ランジャは心の切り替えが早く、強い。この心のタフさがあったからこそ、仁太と行動を共にする決意をし、その結果として仁太はあのゴリラ獣人たちに殺されずここまで生きてこられた。
そしてその強さが、言葉が、今度は仁太を突き刺す刃となった。"君だって辛いはず"、その気遣いがたまらなく苦しい。
「ところでさ、君の世界ってどんなところだい?」
不意にランジャが話しかけてきた。
「え?どんなって・・・普通の・・・」
「普通のってことはないだろう。例えば君は毎日何をしてたんだい?君の身体能力では狩りもままならない気がするんだけど」
「そりゃあ、学校に行って、勉強して」
「そう、それだよ、仁太。そのガッコウってのを、僕は知らない。そもそも僕はチャカストで、君は人間だ。生活が、世界が同じなはずないだろう?君にとっての"普通"を聞かせて欲しいんだ」
元居た世界への未練について話していた矢先である。こう言っては何だが。この獣人は心の切り替えが早いと同時に、少々無神経なところがある気がする。
「俺にとっての、普通・・・」
朝起きて、食事を取り、学校へ行く。大人なら仕事か、家事をする。仁太の世界では当たり前の生活。堕落して、例外になる人もいる。例外にならざるを得ない国もある。その例外もまた、ランジャの知らない生活。
仁太が自分の生活サイクルを話してやると、今度は話のなかで少し触れた社会の仕組みや職業についてなど、色々なことを尋ねてきた。仁太が話すそれら全ての話を、ランジャは楽しそうに聞いていた。
「実に面白いよ、仁太。君の話は驚きに満ちている。狩りを行わない生活というのは想像したこともなかった。動物しかり、植物しかり、僕らはいつだって自然に育ったものを狩ってきた。だが人間たちは作り管理することを覚えた・・・凄いことだよ、これは。僕が幼いころに聞かされた話といえば先祖の武勇伝位のものだけど、その中に出てきたどんな強敵も、君たちが挑んだ大地という難敵に比べれば可愛いものさ。規模が、そして見返りが違う。どんなに巨大な動物も、食べてしまえばお終いだからね」
と、このようにランジャは興奮を抑えきれない様子ではしゃぎ続けた。その姿はまるで、楽しい絵本を読んでもらった子供のようだ。
はしゃぐランジャとは対照的に、話を進めながら仁太もまた別なことを考えて静かに興奮していた。
仁太にとってつまらないほど当たり前の話が、これほど喜ばれる。その事実が、ここが異世界であるということを仁太に実感させてくれる。他愛もない会話でも感じてしまうこの実感が、たまらなく楽しい。
なにより、ほんの一日前までは会話さえままならなかったランジャと言葉を交わしているということが証明してくれる新たな事実。
魔術は実在する、ということ。
ここが、この場所こそが、仁太の夢想した異世界。魔術があって、獣人がいて、それでいて言葉も通じる。
興奮しないほうがおかしいのだ。紆余曲折もあったが、目指した世界に辿りつけたのだから。彼の逃避は成功したのだ。
それがランジャにとって、望まぬ転移で此処に来た住人にとって許しがたいことだったとしても。仁太は喜ばずにはいられなかった。