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個人情報を漏洩されただけなのに 〜現時点で二次被害は確認されておりません〜

掲載日:2026/10/09

『【重要】不正アクセスによるお客様情報の流出に関するお詫びとお知らせ』


 そのメールは先週の金曜日に届いていた。


『流出した可能性のある情報:氏名、住所、電話番号、生年月日、メールアドレス、運転免許証の画像』

『現時点で二次被害は確認されておりません』

『お詫びのしるしとして、次回のご利用時に使える500円分のクーポンをお送りいたします』


 僕はそれを開いて、最後まで読まずに次のメールへ進んだ。既読の印だけが付いた。


 今年に入って4通目のお詫びだった。焼肉チェーンのアプリ。ドラッグストアのポイントカード。学生のころに使った就活サイト。そして、3年前に登録したきりのカーシェア。どこかが漏らすたびに、ネットニュースの見出しには『相次ぐ流出』の文字が並び、僕の受信箱には似たような文面が届いた。


 漏れても何も起きなかった。何も起きないから、最後まで読まない。


 二次被害が確認されたのは、それから数日後、夜中の2時14分だった。


          ◇


 枕元でスマホが震え続けていた。


 1回では止まらなかった。震えて、止まって、また震える。目覚ましとは違う短くて細かい振動が、棚の板の上で何度も跳ねていた。


 手を伸ばして画面を顔の前に持ってくる。まぶしさに目を細めた。


『[メール]パスワードが変更されました』

『[メール]新しい端末からログインがありました』

『[通販サイト]アカウント情報が更新されました』

『[SNS]新しい端末からのログインを検知しました』

『[ネット銀行]ログインがありました』

『[通販サイト]ご注文ありがとうございます』

『[通販サイト]ご注文ありがとうございます』

『[通販サイト]ご注文ありがとうございます』


 通知は雪崩のように押し寄せた。1つ読み終わる前に、次の1つが上に乗る。


 最初は他人のスマホの通知を見ているのかと思った。それくらい僕のスマホはふだん鳴らなかった。28歳、中堅企業に勤める会社員。休みの日に連絡をくれる友達はいないし、恋人は2年前からいない。鳴るのはクーポンと天気くらいのものだ。


 メールのアプリを開いた。


『ログインしてください』


 パスワードを入れた。弾かれた。


『パスワードが正しくありません』


 すぐ下の『パスワードをお忘れの方』を押した。


『確認コードをご登録のメールアドレス(k*****@*****.com)に送信しました』


 僕のアドレスはwで始まる。


 今度は『電話番号で確認する』を選んだ。


『SMSで確認コードを送信しました』


 1分待っても、2分待っても、何も届かない。


 画面の右上を見た。Wi-Fiの扇形の横で、小さく『圏外』とあった。


 いつからだろう。昨夜の帰りの電車で見ていた動画が途中で止まったのを思い出した。トンネルのせいだと思った。家に着けばWi-Fiにつながるから、気にせずビールを2本空けて寝た。


 調べるとすぐに出てきた。SIMスワップ。他人になりすまして携帯ショップへ行き、スマホをなくしたと言ってSIMカードを再発行させる。電話番号ごと乗っ取る。確認コードのSMSは本人ではなく、犯人の手元に届く。春ごろから証券会社や銀行が何度も注意を呼びかけていた手口だった。


 僕は証券口座を持っていなかったから、その見出しが流れてくるたびに、読まずに指で飛ばしていた。


 窓口でなりすますには、顔写真つきの身分証がいる。


 既読にしただけのメールの文面が、頭の中で勝手に開いた。


『流出した可能性のある情報:氏名、住所、電話番号、生年月日、メールアドレス、運転免許証の画像』


 3年前のお盆、実家に帰るつもりでカーシェアに登録した。駅から実家までのバスが1日に4本しかないからだ。スマホで免許証の表と裏を撮って、アップロードした。結局そのお盆も、次の正月も帰らなかった。


 一度も乗らなかった車のために、僕の顔は3年間どこかに保管されていた。


 SNSのアプリはもう僕を入れてくれない。ログインできないまま、ブラウザで自分のアカウントIDを検索した。


 アイコンは2年前に撮ったラーメンの写真のまま。最後の投稿もそのラーメンだ。フォロワーは31人。そのうち何人がまだ動いているアカウントなのかは知らない。


 名前の欄だけが変わっていた。ずっと『わた』にしていた表示名が、僕の本名になっていた。


『木村航(わたる)』


 見ているあいだに投稿が1つ増えた。


『眠れない』


 2時31分。


 僕も眠れなかった。同じ時刻に、同じ名前で、同じことを考えている誰かがいる。


 ネット銀行のアプリは残高だけを見せてくれた。


『残高 0円』


 昨夜までは80万円以上あったはずだ。入社して6年、使い道も決めずに貯めてきた金だ。


 その下に振込の履歴が3行並んでいる。知らない名前の、知らない口座へ。


『2時19分 振込』

『2時20分 振込』

『2時21分 振込』


 僕が届かない確認コードを待っていたあいだの、1分おきだった。


 最初の通知から10分もたたないうちに、メールも通販サイトもSNSも銀行も、僕の手を離れていた。人の指でできる速さではない、とネットの誰かが書いていた。今どきはこういうことをAIにやらせるのだという。


 銀行の問い合わせ窓口は24時間開いていた。


『AIアシスタントがお答えします。ご用件をどうぞ』

『身に覚えのない支払いがあります。乗っ取られました』

『ご不便をおかけしております。ご本人様確認のため、ご登録の電話番号へSMSで確認コードをお送りしました』

『その電話番号を乗っ取られているんです』

『申し訳ございません。ご本人様であることを確認できませんでした。ご本人様確認のため、ご登録の電話番号へ……』


 僕はスマホを布団の上に放り出した。


 誰かに言わなければ、と思った。言ってどうにかなるわけではない。それでも夜中の3時に1人で画面を見ているのが怖かった。


 メッセージのアプリを開いた。一覧には通販サイトとコンビニとハンバーガー屋の公式アカウントが並んでいる。その下に会社の部署のグループ。その下の大学の同期のグループは、最後の発言が1年半前だった。


 ずっと下に『母』があった。


 最後のやりとりは3ヶ月前だった。


『新しい番号、登録しといたよ。いつも電話くれて、ありがとうね』


 僕はそれに、親指を立てた柴犬のスタンプを1つだけ返していた。


 あのときも意味が分からなかった。番号を変えた覚えはない。いつもどころか、正月から一度も電話をしていない。誰かと間違えたのだろう、と思った。父さんが死んでから、母さんは同じ話を何度もするようになっていた。だから確かめなかった。


 こんな時間に母さんに何を書けばいいのか、分からなかった。


 迷っているうちに画面が切り替わった。


『別の端末でログインしたため、ログアウトしました』


 母さんとのやりとりはそれきり見えなくなった。


 カーテンの隙間が白くなっていく。


 テーブルの上に昨夜空けたビールの缶が2本並んでいる。今月からビールも発泡酒も同じ税金になった。値段の差が縮んだなら、と思って本物のほうを買った。


 僕のことを本物だと言ってくれる画面は、もう1つもなかった。


          ◇


 7時、ネットニュースの見出しにカーシェアの続報が出ていた。


『カーシェア流出、免許証画像は百数十万人分 「現時点で二次被害は確認されておりません」』


 見出しの下には、不正アクセスは何ヶ月も前から続いていたらしい、と1行だけ添えてあった。横の小さな写真で、スーツの人たちが頭を下げている。


 僕は記事を開かずにアプリを閉じた。


 一睡もしていなかった。それでも会社には行くつもりだった。行けばパソコンがある。情報システム部の人がいる。会社の席の電話からなら、銀行にも携帯会社にもかけられる。


 ワイシャツのボタンを留めていたとき、インターホンが鳴った。


 8時2分だった。


 ドアを開けると、制服の色が違う宅配便の人が2人立っている。


 前の人は腰の高さほどもある段ボールを抱えていた。

「木村航さんですね。代引きで25万円になります」


 伝票の品名の欄には『開運招福 黄金の壺(特大)』とあった。


「頼んでません」

「でも、木村航さんですよね」


 伝票を見直した。注文者、木村航。住所、このアパートのこの部屋。電話番号、僕の番号。1文字も1桁も間違っていなかった。


 受付の日付は先週だった。お届けの指定は今朝の8時から。備考の欄にはこうあった。


『置き配不可。必ずご本人様に手渡しでお願いします』


 後ろの人が発泡スチロールの箱を差し出した。

「こちらクール便です。着払いで3,400円になります」


 品名は『なまもの』。箱の継ぎ目からにおいが漏れている。夏の終わりに生ゴミの日を1回逃したときのにおいだった。


「受け取られますか」

「受け取りません」

「では念のため、こちらに受取拒否のサインを」


 ボールペンを渡された。僕は自分の名前を書いた。


 木村。


 書いているあいだに、廊下の奥でエレベーターの扉が開いた。3人目が台車を押してこちらへ歩いてくる。


「こっちもお願いします。猫砂、20袋です」

「猫、飼ってません」

「拒否なら、サインを」


 木村。


 4人目が運んできたのは平たい箱だった。品名は『健康器具』。箱の側面に中身の写真が大きく印刷されている。


 隣の部屋のドアが開いた。

「朝から、うるさいんですけど」


 隣の女の人の目が、僕の顔から箱の写真へ下りた。それからもう一度僕の顔に戻って、ドアが閉まった。この部屋に住んで4年、隣の人と目が合ったのはそれが初めてだった。


 エレベーターの扉は、開くたびに僕への届け物を降ろした。


 木村。

 木村。

 木村。


 8時30分までに拒否した荷物は、10個を超えていた。自分の名前をこんなに続けて書いたことはなかった。頼んだのは僕じゃないと言うために、僕は僕の名前を書き続けた。


 時計を見て走った。駅のホームでネクタイを締めていないことに気づいた。


          ◇


 会社のフロアに入ったのは8時58分だった。


 その瞬間、空気が変わったのが分かった。キーボードの音が一斉に止まって、また一斉に始まった。誰もこちらを見ない。見ないようにして、見ている。


 自分の席のパソコンは、電源を入れてもログインの画面から先へ進まない。


『このアカウントは管理者によってロックされています』


「木村くん」

 顔を上げると、課長がパーティションの上から首だけを出していた。

「ちょっと、いいかな」


 小会議室に入ると、課長はドアを閉めてブラインドまで下ろした。机の上のノートパソコンを黙ってこちらに向けた。


 画面に僕の顔があった。


 運転免許証の画像だった。3年前にスマホで撮ってカーシェアにアップロードした、あの1枚だ。左下に親指の影が少しだけ写り込んでいる。僕の親指だ。


 その横にSNSの投稿が2つ並んでいる。表示名は木村航。アイコンはラーメン。


『うちの会社、来月大手と経営統合するらしい。株を買うなら今のうち』


 2つ目は、僕が担当している取引先の社名と、そこの部長のフルネームで始まり、こう続いていた。


『お前のせいで俺の人生は終わった。明日の夕方、会社の前で刺す。本気だから免許証も載せとく』


 投稿の時刻はどちらも8時21分だった。


 8時21分。玄関で受取拒否のために僕の名前を書き続けていたあいだに、僕の名前でこれが書かれていた。


 2つ目の投稿には音声のファイルが付いていた。課長が再生の三角を押した。


『お前のせいで俺の人生は終わった』


「君の声だね」


 僕の声だった。


 4年前、大学の友達の結婚式で友人代表のスピーチをした。その動画が、メールに紐づいたクラウドに保存してあったのを思い出した。


「違います。AIです。今は数秒の録音があれば、声なんていくらでも──」

「じゃあ、この免許証もAIか」


 言葉に詰まった。

「それは……本物です。でも、流出したんです。カーシェアの、今朝もニュースで──」


「流出したのは百何十万人分だったかな」

 課長は机に目を落としたままだった。


「その百何十万人の中で、どうして君だけがこうなるんだ」


 答えられなかった。


「それに、この部長の名前だ。社外の人間がどうやって知る」

「メールを見られたんです。私用のメールに──」

「私用のメールに、どうして取引先の名前がある」


 僕は口を閉じた。取引先とのメールを家でも読めるように、私用のアドレスへ転送していた。去年、やめるようにと情報システム部から全社にメールが来ていた。僕はそれも開いて既読にしただけだった。


「朝いちばんで、うちの株が8%上がった」

 課長がノートパソコンを閉じた。

「取引所からもじきに問い合わせが来る。先方の部長は今日の出社を見合わせた。警察には、さっき連絡した」


「僕じゃないんです。乗っ取られたんです」


「木村くん」

 課長はそこで初めて僕の顔を見た。

「乗っ取られたんだとしても、君の免許証で、君の声で、君の取引先だ」

 閉じたノートパソコンの上に、課長は手のひらを置いた。


「これが証拠だ」


 当分は自宅待機。処分は追って連絡する。社員証は置いていくように。課長はそれを、紙に書いてあるとおりに読み上げた。


 首から社員証を外した。写真の僕は入社式の日の顔で、少しだけ笑っている。会社が僕を僕だと言ってくれる、最後の1枚だった。


 フロアを横切るあいだ、誰も顔を上げなかった。6年間同じ部署だった同期も、モニターだけを見ていた。


          ◇


 会社を出て、その足で警察署へ向かった。


 捕まるかもしれない、と思った。それでも行かないわけにはいかなかった。僕がやったんじゃないと、誰かに言わなければならなかった。


 相談窓口で名前を言うと、警察官は手元の端末をのぞいて、どこかへ内線をかけた。5分後、私服の男の人が2人下りてきた。

「木村航さんですね。ちょうどよかった。少しお話を聞かせてもらえますか。任意ですけど」


 窓のない小さな部屋で、3時間話した。夜中の2時14分から全部。圏外。パスワード。0円になった残高。壺。猫砂。8時21分。同じことを、聞かれるたびに最初から繰り返した。


 画面の右上の『圏外』は、写真に撮られた。ほかに見せられるものは、スマホにはもう何も残っていなかった。免許証は、写真と僕の顔を見比べただけで返された。年上のほうの刑事はときどき頷きながら、手元の紙に何行かだけ書いた。


「もし本当に乗っ取られてるならね、書き込みの発信元はたぶん海外のサーバーを何か所も経由してます。照会をかけて、向こうの会社が応じて、また次をたどって……特定までには早くても数ヶ月かな」


「数ヶ月」


「それと、失礼ですけど」

 刑事はボールペンの尻でこめかみを掻いた。

「あなたが書き込んでいないっていう証明も、今のところないんですよ。ご本人の免許証が貼ってあるわけですから」


 今日のところは帰っていい、と言われた。それから刑事は声を落とした。

「書き込みには明日の夕方とあります。そのころは先方の会社の近くにいないでください。住所もネットに出てますから、しばらく身を寄せられるところは? ご実家とか」


 実家、と言われて浮かんだのは、玄関の引き戸と、台所の換気扇の音と、甘い卵焼きのにおいだった。母さんの顔は、そのあとからぼんやりやってきた。


「では、ご連絡先を。携帯が使えないなら、ご実家の電話でも」


 渡されたボールペンを持ったまま、動けなくなった。


 実家の電話番号を覚えていなかった。母さんの携帯の番号も。スマホの電話帳を開くと、空っぽだった。クラウドと同期していた電話帳も通話の履歴も、いつの間にか消されていた。


 結局、実家の住所だけを書いた。それは覚えていた。


 携帯ショップでは2時間待った。免許証を出すと、店員は奥へ引っ込んでしばらく戻ってこない。


「申し訳ございません。こちらの番号は、昨日ご本人様がお手続きを済まされています」

 店員は僕の免許証を両手で返してよこした。

「お持ちの免許証も、ご登録のものと番号が合わなくて。最後の1桁だけなんですが」

 そこまで言って、店員は口をつぐんだ。僕の顔と免許証の写真を一度ずつ見た。

「……申し訳ございません。本日は、これ以上のお手続きはいたしかねます」


 最後の1桁が何なのか、僕には分からなかった。店員が何に気づいたのかも。


          ◇


 帰り着いたのは17時を過ぎたころだった。


 角を曲がる手前で足が止まった。


 アパートの前に人がいた。3人、いや、4人。スマホを縦に構えて、ゆっくり建物を見上げている男がいる。自撮り棒の先に向かって小声でしゃべっている男がいる。少し離れた電柱の陰に、ただ立っているだけの人もいた。


 郵便受けからは紙があふれている。僕の部屋のドアにも何か貼ってある。遠くて字は読めない。読めなくてよかった、と思った。


 裏に回って、非常階段から部屋に入った。いつもの癖で電気をつけた。


 スマホはまだWi-Fiにつながる。動画サイトを開くと、探すまでもなかった。『いま話題』のいちばん上にあった。


『【凸】殺害予告男の家に来てみた【特定済み】』


 見慣れたアパートが映っていた。2階の、左から3つ目の窓。カーテンの隙間から明かりが漏れている。


 僕の部屋だった。


 画面の横をコメントが流れている。


『電気ついてね?』

『いるじゃんw』

『免許証の顔と一致したら通報な』

『会社クビ確定』

『隣の人かわいそう』

『こういう普通っぽいのが一番やばい』

『窓あけろー』


 壁のスイッチを押した。


 部屋が暗くなって、手の中の画面だけが光っている。何秒か遅れて、その画面の中の僕の部屋の窓も暗くなった。


『消えたwww』

『見てるぞ』

『こいつ今この配信見てるwww』


 もうダメだと思った。


 ここにいれば、いつか誰かがドアを叩く。外に出れば、誰かが撮る。どこへログインしようとしても、ご本人様確認で弾かれる。スマホの中の僕は全部、僕じゃない誰かが持っている。クラウドを握っているその誰かには、このスマホが今どこにあるのかも地図の上で見えているはずだった。


 だったら、何もかも捨てて生身の僕だけで行くしかない。行き先は1つしか思いつかなかった。


 設定を開いて『初期化』を選んだ。


 押す前に写真のアプリを開いた。母さんの写真が1枚くらいはあるはずだった。


 1枚も出てこなかった。写真はクラウドに預けてあって、クラウドはもう僕を入れてくれない。アルバムは白い格子になっていて、格子の1つ1つの中で小さな丸がいつまでも回っている。


 初期化を押した。パスコードを入れて、もう一度押した。


 画面が暗くなって、細い棒が少しずつ伸びていく。


 クリップの先をスマホの横の小さな穴に差し込んだ。トレイが出てくる。爪の先ほどのSIMカードは、昨夜からただのプラスチックの欠片になっていた。


 キッチンのハサミで2つに切った。4つに切った。もう切るところがなくなるまで切って、ゴミ箱に落とした。


 空っぽになったスマホは、机の上に置いていくことにした。


 机の引き出しのいちばん奥に、封筒があった。


 10年前、上京する朝に母さんが持たせてくれたものだ。表にボールペンで『航へ』、裏に『困ったときに使いなさい』と書いてある。中には、古いほうの1万円札が1枚。


 10年間、困らなかったわけじゃない。ただ、これを使うほど困ったら、帰らなければいけない気がしていた。


 フードを深くかぶってマスクをして、非常階段を下りた。表の通りではまだ誰かが暗い窓に向かってしゃべっている。


 夜行バスの切符はバスターミナルの窓口で買った。


 差し出したクレジットカードは端末に2回通されて、2回とも戻ってきた。

「……現金でも、大丈夫ですよ」


 7,200円。財布には3,000円ちょっとしか入っていなかった。交通系ICの残高も2,000円を切っている。


 母さんの1万円札を出した。お釣りの2,800円は封筒に戻した。


 22時40分、バスが出た。


 車内の明かりが落ちると、あちこちの座席で小さな画面が光り始めた。カーテンの隙間から、通路の向こうの人の顔が青白く浮かんでいる。


 僕だけが暗かった。


 卵焼きのにおいを思い出していた。母さんの卵焼きは砂糖が多くて、少し焦げている。こっちで食べるのは、どれもあんなに甘くない。


 上京する朝、母さんはバス停まで見送りに来た。バスが角を曲がるまで、ずっと手を振っていた。


 最後に帰ったのは5年前、父さんの葬式のときだ。その夜、実家の居間で、母さんは僕の皿に自分の分の卵焼きを載せた。たまには電話してね、と言った。あんたの部屋、そのままにしてあるからね、とも言った。うん、と答えた。


 それきり5年。何も持たず連絡もせずに帰ってくる息子を、母さんは何と言うだろう。


 怒られるだろう、と思った。

 怒られたい、と思った。


 あのメッセージのことが引っかかった。新しい番号。かけた覚えのない電話。今日1日で何度も目にしたなりすましという言葉がその2つに勝手につながろうとした。


 僕はそれを頭の外へ押しやった。母さんは誰かと間違えたのだ。そう決めて眠った。


          ◇


 終点に着いたのは6時10分だった。


 駅前のロータリーは昔と同じ形をしていた。1日4本のバスの1本目が6時35分に出た。運賃箱に480円を入れた。小銭を数えて払うのは何年ぶりだろう。この町のバスはまだ現金しか使えない。


 稲刈りはもう済んでいた。刈り株の列が朝靄の中にどこまでも並んでいる。柿の実が色づき始めていた。


 実家の前で足が止まった。


 門柱の表札は昔のままの『木村』だった。物干し竿に洗濯物が揺れている。母さんのエプロンと、タオルと、男物のシャツが2枚。


 父さんが死んでから、この家に男物のシャツを着る人はいないはずだった。


 台所の換気扇が回っている。甘くて少し焦げたにおいが、道まで流れてくる。


 インターホンを押した。


 ピンポン、と鳴った。昔と同じ間の抜けた音。昨日の朝は鳴らされる側だった。今朝は僕が押す側だった。


 引き戸が開いた。


 母さんは5年前より小さくなっていた。白髪が増えて、エプロンの紐が前より長く余っていた。そのエプロンを裏返しに着けている。


 僕の顔を見て、首をかしげた。


「どちら様ですか……?」


 喉が詰まった。

「母さん、僕だよ。航」


「え? 航?」

 母さんは眉を寄せた。

「何言ってるの。航なら今、奥で朝ごはん食べてるわよ」


 奥からテレビの音がしている。朝の情報番組の明るい音楽。それに混じって、茶碗に箸の当たる音がした。


 僕はポケットから封筒を出して、『航へ』の字が見えるように母さんの目の前に差し出した。

「上京する朝に母さんがくれたやつだよ。困ったときに使いなさいって。覚えてる?」


 母さんの目が封筒の上で止まった。

「……私の字ね」

 指が封筒の角に触れかけた。


「母さん、誰?」

 奥から声がした。


 廊下の暗がりから男が1人出てきた。片手に箸を持っている。青い箸だった。この家で僕が使っていた箸だった。


 知らない男だった。


 僕より少し背が低くて、少し痩せていて、目が細い。どこも似ていなかった。


 男は紺色のジャージを着ていた。胸に白い糸で『木村』と刺繍が入っている。


 僕の、高校のジャージだった。


「なんか、知らない人が来てて」

 母さんが男のほうを振り返った。僕から目を離して、男のほうへ。

「航の知り合い?」


「いや」

 男は僕の顔をまっすぐに見た。

「知らない人だよ」


 男の言葉は母さんと同じところで上がって、同じところで下がった。上京して10年のあいだに、僕がすっかりなくしてしまった抑揚だった。


「ふざけるな!」

 自分のものとは思えない声が出た。僕は玄関に踏み込んで、男のジャージの胸ぐらをつかんだ。『木村』の刺繍が僕の指の下でよじれた。封筒が玄関の外の砂利に落ちた。

「お前は誰だ! それは僕のだ! 全部、僕のだ!」


 母さんが悲鳴を上げた。


 男は抵抗しなかった。胸ぐらをつかまれたまま、ポケットからスマホを出して親指で3回画面を叩いた。

「もしもし、警察ですか。家に、知らない男が入ってきて……はい、母がいます。年寄りです」

 男は落ち着いた声でこの家の住所を言った。それから、こう続けた。

「名前は木村航です。電話番号は──」


 男が口にした11桁は、僕の番号だった。一昨日の夜から、どこかの誰かの手の中で鳴っていた番号だ。


 隣の家の戸が開いた。サンダルをつっかけたおばさんが走ってきた。沢井のおばさんだ。小学生のころ、よく柿をくれた。

「航くん! 大丈夫!?」

 おばさんは男のほうへ駆け寄った。

 僕の横をすり抜けて。


 僕は男の胸ぐらから手を離した。


 パトカーが来るまでの10分、誰も僕に話しかけなかった。僕が何を言っても、母さんは男の後ろから出てこなかった。


 警察官は2人だった。先に口を開いたのは、沢井のおばさんだった。

「先月、帰ってきたんですよ。向こうで体を壊して、顔つきまで変わるくらい痩せちゃって。それでも毎朝ゴミ出ししてくれてね、いい息子さんで」


 男が僕を指さした。

「この人です」


「僕が木村航です! 免許証を見てください!」

 財布を差し出した。


 警察官の1人が免許証を抜いて、パトカーへ持っていった。


 そのとき思い出した。2階の僕の部屋の、本棚のいちばん下に卒業アルバムがある。高校の、中学の、小学校の。どれにも僕の顔がある。


 あれを見せれば。


 僕は玄関へ走った。


「待ちなさい!」


 腕をつかまれ、そのまま玄関の前の砂利の上にうつぶせに押さえつけられた。頬に小石が食い込んだ。

「アルバムが! 2階に、アルバムがあるんです!」


 誰も2階へは上がらなかった。


 パトカーから戻ってきた警察官は、タブレットを手にしていた。

「この免許証の番号、先月、紛失の届が出てるね。もう再交付されてる」


「再交付なんて、してない」


「本人は、してるんだよ」

 警察官がタブレットの画面をこちらに向けた。


 照会された『木村航』の顔写真は、玄関に立っている男の顔だった。


「それとね」

 もう1人の警察官が業務用のスマホを見ていた。

「昨日の夕方、ご本人から相談があってね。なくした免許証が知らない男の顔で作り替えられて、ネットの脅迫に使われてるって。マイナンバーカードも見せてもらったよ」


 2人は僕の免許証とスマホの画面とを並べて見た。画面の中の免許証の左下に、親指の影が写り込んでいる。


「拾ったカードを自分の顔で作り替えて、自分で撮って、載せた。そうだね」


 撮ったのは、たしかに僕だった。


「僕です。でも、その免許証が本物なんです──」


「本物はね」

 警察官は玄関のほうへ顎をしゃくった。

「ご本人は、あちらにいらっしゃるから」


 男がこちらへ来て、僕の顔の横にしゃがみこんだ。砂利の上に落ちていた封筒を拾うためだった。そのついでのように、男は母さんにも警察官にも聞こえない声で、僕の耳もとに言った。


「5年もログインしてないアカウントはさ、乗っ取られても文句言えないんだよ」


 男は立ち上がって、封筒の砂を払った。

「母さん、これ、俺がなくしたやつだ」


 母さんは男の手の中の『航へ』を見て、それから一度だけ僕を見た。何かを思い出そうとしている顔だった。


 男が母さんの背中に手を添えた。

「ほら、ごはん冷めるよ」


 僕はパトカーの後部座席に押し込まれた。


 窓の向こうで男が何か言った。母さんが小さく笑った。2人は玄関の中へ入っていった。


 引き戸が、閉まった。


          ◇


 パトカーの中で3ヶ月前のメッセージを思い出していた。


『新しい番号、登録しといたよ。いつも電話くれて、ありがとうね』


 母さんの物忘れではなかった。


 番号が変わったと言って、あの男は僕の名前で何度も母さんに電話をかけていた。僕が正月から一度もかけなかった電話を。


 学生のころに使った就活サイトには、帰省先の住所と電話番号を書く欄があった。カーシェアには顔があった。僕が1通も最後まで読まなかった4通のお詫びの中身を、あの男はつなげて読んだのだ。


 百何十万人分の顔と住所の中から、あの男は僕を選んだ。いなくなっても誰も探しに来ない顔を。


 母さんはちゃんと僕に知らせていた。

 僕は親指を立てた柴犬を、1つ返しただけだった。


 パトカーが動き出した。助手席のタブレットには、まだ『木村航』が映っている。僕ではない顔がまっすぐこちらを見ている。


 2階の本棚に、卒業アルバムはまだあるだろうか。

 それを母さんが確かめてくれる前に、あの男に処分されてしまうかもしれない。


 会社にある6年分の僕の顔も、今はもう、殺害予告を書いた男の顔だ。


 データの上の木村航は、今朝も実家で母親の作った朝ごはんを食べている。80万円を振り込んだのも、ご本人様だ。脅迫を書き込んだのは、その名前を騙ったどこかの男だ。


 二次被害は確認されていない。


 ──個人情報を漏洩されただけなのに。

 僕の人生は、誰かに乗っ取られた。


 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 航は物語の都合で、不運を全部まとめて引き受けてくれました。現実では、いくつか手を打っておくだけで、被害はぐっと小さくできます。2026年は流出のお詫びメールが何通も届いた年だったので、ここにまとめておきます。


■お詫びメールが届いたら

・最後まで読む。何が漏れたか(パスワードか、カード番号か、免許証の画像か)で、やることが変わります。

・メールやSMSのリンクは開かず、念のため公式サイトや公式アプリから確かめる。お詫びを装ったフィッシングも出回っています。


■パスワードと2段階認証

・漏れたサービスのパスワードを変える。同じパスワードを使い回しているサービスも、全部変える。

・2段階認証は、できればSMSではなく認証アプリやパスキーに。電話番号を乗っ取られると、SMSの確認コードは犯人に届きます。


■電話番号の乗っ取り(SIMスワップ)

・携帯会社の会員ページで、暗証番号を推測されにくいものに変える。SIMの再発行に関わるロックや通知の設定があれば、有効にしておく(名前は会社ごとに違うので、公式サイトで確認を)。

・スマホが急に「圏外」になったら、別の電話からすぐ携帯会社へ。家でWi-Fiにつながっている場合は、気づきにくいのが怖いところです。


■お金まわり

・銀行とカードの利用通知をオンにして、振込の限度額は必要な分まで下げておく。

・身に覚えのない取引を見つけたら、すぐ銀行やカード会社に連絡して止めてもらう。


■免許証などの画像が漏れたら

・信用情報機関(CIC、JICC、全国銀行個人信用情報センターの3つ)に「本人申告」をすると、あなたの名前でローンやカードの申し込みがあったときに、審査する側へ注意を促す情報が登録されます。手続きは3ヶ所それぞれ別です。悪用を確実に防げるものではありませんが、打てる手の一つです。

・同じ機関で自分の信用情報の「開示」を受けて、身に覚えのない申し込みや契約がないか確かめる。

・マイナンバーカードをなくしたり盗まれたりしたときは、「マイナンバー総合フリーダイヤル」で、24時間いつでも一時停止できます。


■家族と

・「番号が変わった」と電話が来たら、前の番号にかけ直して確かめる。家族だけの合言葉を決めておくのも手です。

・それから、ときどき自分から電話をかけてください。顔を見せてください。航がいちばん後悔しているのは、たぶんそこです。


■乗っ取られてしまったら

・画面を写真に撮るなどして、記録を残す。スマホの初期化は、相談してからにしてください。

・警察相談専用電話(#9110)か、お住まいの都道府県警察のサイバー犯罪相談窓口へ。

・消費者ホットライン(188)で、近くの消費生活センターにつながります。

・流出させた会社の対応に疑問があるときは、個人情報保護委員会の「個人情報保護法相談ダイヤル」へ。


※窓口や手続きは2026年10月時点の情報です。最新の内容は、各公式サイトでご確認ください。


 お詫びのメールは、最後まで読みましょう。

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