第79話 潰えぬ夢、変わる歴史(とき)
天正11年(1583年)5月上旬 近江・長浜城 羽柴秀成
反羽柴の領袖であり織田家最強の武力を誇った柴田勝家が自刃してから、十日が過ぎた。
羽柴勢は、北ノ庄の落城を見届けてから、そのまま加賀まで進軍し旧柴田領を悉く併呑した。
そして、越中(富山県)を治めていた佐々成政をも臣従させ、北陸一帯を完全に支配下に置いた。
秀吉は、一通りの仕置きを済ますと、主だった諸将を引き連れ長浜まで兵を連れて戻ってきた。
戦後処理に追われる長浜城は、勝利の熱狂に覆われていた。
最大の敵、柴田勝家との戦いに勝っただけでなく、返す刀で北ノ庄城を攻め落とし、北陸一帯を短期間で制覇してしまったのだ。
羽柴の諸将にとっては、大勝利という言葉ではとても言い表せられないくらいの、まさに偉業であった。
大広間
「いやぁ、よくもここまで勝ったものよ!」
「まさか、一挙に、越前、越中、能登まで臣従させられるとはな」
上座で秀吉が豪快に笑いながら、自身の膝を叩いた。
その前には、父・秀長、黒田官兵衛、そして私が座っている。
父は、安堵の表情を浮かべているが、頬がこけ疲れ切った様子であった。
「釣り出しがうまく嵌まったの。あれは源一郎の策と聞いたが?真か?」
秀吉は上機嫌で、私に声をかけた。
私は、急な質問に、認めていいのか、否定した方がいいのかがわからず、声が出なかった。
それを見た官兵衛が、
「殿、流石に若君が自ら、私の策ですとは言いにくいでしょう」
「その場に私もおりましたが、若殿が中国大返しの例に触れられ、予め街道沿いで準備を整えることになったのです。策とはいい難いですが、ご立派な提案でございました」
と、私の顔を見ながら、丁寧に説明してくれた。
そして、にやっと笑い、言葉を続けた。
「それよりも、山路殿を敵方に走らせ大岩山砦に佐久間殿を誘い込んだこと、前田殿と山路殿にお市の方の保護を説いたこと、これは若殿のお知恵。誠、見事なものでございました」
秀吉は、上機嫌に頷きながら、官兵衛の話を聞いていた。
そして、
「長浜での留守番は嫌だと言いおるから、仕方なく連れて行ったが、まさかここまで活躍するとはな。誠にあっぱれよ」
そう言うと、膝を何度も叩いて豪快に笑った。
「本能寺の後もそうだったが、源一郎の一言が勝利に繋がっておる気がするわ。天が味方しているのは、わしではなく、案外お主なのかもしれんな」
上機嫌な秀吉を諌めるように、父が言葉を挟んだ。
「兄者。今回は運が味方したに過ぎませぬ。あまり褒めると調子に乗りますので」
「何が運だ、小一郎。その運を味方にできぬ者も多い。勝利に貢献した者を素直に褒めておるだけだ」
「お主も、しっかり褒めてやれ」
秀吉にそう言われて、父は苦笑いを浮かべながら「はっ 後でしっかり褒めておきます」と言った。
父としては『勝って兜の緒を締めよ』の戒めを教育したかったのだろうが、ご機嫌の秀吉には通じなかったようだ。
「そうい言えば、山崎の戦いの後に約束した褒美もまだだったな。今回の褒美と合わせてたんまり取らそう」
「希望があればいつでも聞く。小一郎とよく相談しておけ」
「ははっ!ありがとうございます」
私は『褒美』という言葉を嬉しがる子供のように無邪気に返事をし、頭を大きく下げた。
優しい目でその様子を見ていた秀吉の目が、少しだけ厳しくなった。
「ところで、お市の方がお主に礼を言いたいそうだ。磯野の孫ということにも親近感が湧くらしい」
「慰みの話相手が欲しいのかもしれぬ。この後、挨拶してこい」
私は、目を丸くして固まった。まさか名指しで話をしたいと言われるとは思っていなかった。
その様子がおかしかったのか、秀吉は、声を上げて笑った。
「ははははっ! なんじゃ、血まみれの武者にも動じんお主が、お市様には動揺するのか」
「お主もわしに似て、案外、女子が好きなのかの」
にたっと下品な笑いを浮かべ私を見た。
「いえ、そのようなことは...」
消え入りそうな声で答えた私に、秀吉も父も、官兵衛もくすくすと笑った。
私は父と共に、城内の一画にある静かな離れを訪れていた。
そこには、戦火から救い出されたお市の方と、その娘たち――茶々、初、江の三姉妹が身を寄せている。
襖が開くと、そこには月明かりに照らされた、この世のものとは思えない美しい女性が座っていた。
お市の方。
亡き織田信長公の妹であり、戦国の過酷な運命をその身に体現する女性だ。
「お会いいただき、感謝いたします。美濃守様、秀成殿」
お市の方はそう言うと、腰を深く折って平伏した。
それに合わせて、横に並ぶ三人の娘たちも同じように平伏した。
「お顔を上げてください。私は、羽柴筑前守に仕える一武将に過ぎません。平伏いただくような身分ではありません」
父は慌てて、頭を上げるよう懇願した。
しかし、お市の方は平伏したまま、言葉を続けた。
「いいえ…美濃守様が、浅井の血を未来へ繋ぐため、我らを命に代えても守ると誓ってくださったと伺っております。そして、修理亮様に後を託された勝豊殿を丁重に扱い、柴田の名跡を残そうとされていることも」
「我らにとって二重の恩人。身分は関係ございません。篤くお礼申しげます」
それを聞いた父は、腰を落ち着かせ、低い声で答えた。
「私はここ長浜で多くのものを得ました。妻、舅、嫡男、優秀な家臣、私を慕ってくれる領民」
「彼らの心には貴方様が生き続けております。ならば、私にとっても大切な御方。お救いするのは当然のこと」
「御礼は受け取りましたので、さぁ頭をお上げください」
お市の方がゆっくりと頭を上げ、父の顔を見つめた。
そして、小さな顔を動かし、私の方を見た。その瞳は、驚くほど澄んでいた。
「其方が源一郎殿か。本当にまだ子供なのですね...」
「お幾つになられたのですか?」
お市の方が慈愛に溢れた優しい口調で問いかけてきた。
「9つになります。昨年秋に元服したばかりでございます」
「まぁ。それでは江より、2つ下ですか」
「その歳で、我ら女子にあのような優しい配慮ができるとは。末が恐ろしい...ふふふ」
「匂い袋と半纏、秀成殿からの贈り物なのでしょう?礼を言います」
そう言って、お市の方が小さく頭を下げると、続いて三姉妹も頭を下げた。
「お気に召していただけたなら嬉しいです。好みがわからず選ぶのに苦戦いたしました」
私は、場を明るくしようと、少しおどけて答えてみた。
「ふふっ、本当にお優しいこと」
「優しいだけでなく、先の合戦でも前線で指揮をして、勝利に貢献した武者であるとも聞いています」
「この子達も、そんな英雄殿からの贈り物が嬉しいみたいで。ね、茶々?」
お市の方はそう言って茶々に話を振った。
「えっええ...」
茶々はあからさまに顔を赤らめ、もじもじして下を向き、
「素敵な贈り物に感謝いたします。妹達も大層喜んでおります」
と消え入りそうな声で答えた。
「えっ?一番喜んでいるのは姉様でしょう?こんな綺麗な色を選ぶ御方ってどんな方だろうって」
お江が、何やら爆弾発言らしきことを言った。
「江!私はそんなことは言っていません!黙りなさい!」
茶々が、江の口を抑えようと手を伸ばす。
「ふふふふっ、はははっ」
その姿に、お市の方がお腹をかけて笑いだした。
目には涙を浮かべている。
三人姉妹は、愉快に笑う母の姿に驚き、キョトンとしている。
「あぁ可笑しい。久しぶりに腹の底から笑いました。秀成殿、感謝いたします」
「江?余計なことを言ってはいけません。そういうことは本人が言うものです」
お市がいうと、茶々が顔赤らめ、
「母上まで! あぁぁ」
大きな声で叫ぶと、顔を伏せてしまった。
優しい顔でその様子を眺めていたお市の方が、ふと真顔に戻った。
そして居住まいを正した。
「美濃守様、源一郎殿」
「妾に生きてみたいという希望を与えてくれたこと、この子達に明るい未来の可能性を与えたくれたことに、心から感謝いたします」
「正直、羽柴の天下取りには協力はしたくはありませんが、娘の幸せのために繋がることなら協力いたしましょう」
そう言って、頭を下げた。
父と共に、離れを辞し、夜風に吹かれながら城壁に立った。
父が静かに言葉を発した。
「お市の方は、ずいぶんお前を買っている様子。やはり北近江の血というものに親近感が湧くのだろうか」
「しかし、お前ならわかっているとは思うが、お前の嫁取りはまさに『政』だ。軽々しい行動は控えるようにせよ」
「わかっています。お市の方も半分戯言でしょう」
「まぁ、私たちよりも、母上とねね様が黙ってはいないでしょうから」
そう言って、小さく笑った。
眼下には、琵琶湖の黒い水面が、鏡のように星空を映し出していた。
天を仰げば、星々が静かに、しかし力強く瞬いていた。
この賤ヶ岳の一連の戦いで、大きく歴史が動いた。
本来であれば亡くなるはずの者が生き残った。
その中でも一番影響が大きいのが「お市の方」だろう。
三姉妹の嫁ぎ先が、秀吉の思うがままにできなくなった。
これが将来の豊臣に良い影響となることを願いながら、空に瞬く星を眺めた。
(第3章「歴史の中へ」・完)
今話で、第3章「歴史の中へ」が完結しました。
ここまでご愛読いただき、ありがとうございました。
賤ヶ岳の戦火を潜り抜け、ついに歴史の当事者となった秀成。
次章、第4章は「連枝の絆」
羽柴秀成を取り巻く家族、兄弟、次代を担う若き将星たちの物語に、引き続きご期待ください。
次章準備のため、明日4月2日(木)と3日(金)は休載とさせていただきます。
第4章は、4月4日(土)より再開いたします。




