第72話 賤ヶ岳の戦い3ー別所山の決断
天正11年(1583年)3月下旬 北近江・別所山砦 前田利家
天正11年3月下旬
秀吉の本隊が長浜へ引き上げてから、数日後。
柴田側の最前線、余呉湖を見下ろす別所山砦。
ここに陣を敷く柴田軍の要、前田利家の下に一人の使者が辿り着いた。
利家は、使者が差し出した書状を静かに開いた。
差出人は、当然のごとく羽柴筑前守秀吉だ。
『前田利家殿
この戦、もはや趨勢は決している。
羽柴勢は、数、兵糧、鉄砲の数において柴田勢を凌駕し、西国の諸将もことごとく羽柴に靡いている。
わしは、貴殿と戦うことを何より気にかけている。
かつての「又左」と「藤吉郎」の仲を、戦場の露と消したくはない。
貴殿にも、柴田の親父殿に対する義理があることは理解している。
それゆえ、このまま動かず、静観を貫くならば、それを「羽柴への加担」と見なす。
戦後、前田家の安堵はもちろん、相応の見返りを約束する。
だが、もし貴殿が槍を振えば、前田家は柴田と共に灰燼に帰すことになるであろう。
前田の家をここで絶やすことが貴殿の本意か』
利家は静かに唸った。
今ここで『羽柴につけ』と言われたならば、今まで親父殿の与力として共にしてきた自分としては、拒否するしかない。
自ら率先して、親父殿に弓を引くことはできない。
柴田の軍勢は多く見積もって三万。
一方、秀吉の陣営は五万は超える。
しかも食料、弾薬は豊かな近江、大和、摂津、堺から絶え間なく補給することができる。
親父殿は、秀吉を弱腰だと侮辱し、この戦は必ず勝てると豪語しているが、決してそうではない。
それは親父殿が一番わかっているはずだ。
こうして動けず膠着状態になっていることが何よりの証。
雪を割って越前から這い出てきたにも関わらず、戦端を開けずにいるのは、そういうことだ。
自分が、親父殿を負けに引きずりこむことは絶対にできない。
しかし、様子を見て、負けが確定した後であれば….
そして、万が一、親父殿が勝つようであれば、そのまま勝ち馬に乗れば良い。
『動かなければ味方とみなす』
この秀吉の一言が、利家の義理と自尊心、家を保つという責務を揺さぶった。
狡い考えであることはわかっている。
しかし、家を保つため、一つの、いや唯一の方策であることは間違いない。
秀吉の最大級の譲歩の前に、利家は上を向き、目を瞑った。
しばらく考えたあと、使者に目を戻すと、もう一通書状を差し出してきた。
それは、小一郎、羽柴美濃守秀長のからの書状であった。
『前田利家殿
貴殿と兄・秀吉の仲をよく知る私から、虚飾を抜きにお伝えしたい。
まもなく、この賤ヶ岳は血の海となります。
修理亮殿は誇り高きお方ゆえ、一度矛を交えれば、退くことはないでしょう。
貴殿にお聞きしたい。
もし負け戦となれば、お市様と三人の姫君までもがその道連れとなる恐れがあります。
そうなれば、亡き大殿に顔向けできますでしょうか。
我々は、織田家中の権力争い、ひいては天下に号令する者を決めるため、力と力のぶつかり合いをしております。その結果、どちらかが破れることになりますが、それは戦国の世の宿命として受け入れることはできましょう。
しかし、大殿の血筋に連なるお市様と姫君をそれに巻き込んで良いのでしょうか?
それは我らの本意ではないはずです。
修理亮殿を説得できるのは、柴田家中で重きをなしている貴殿しかおりません。
お市様と姫君を近江のゆかりの者に託せと、説いてはいただけませぬか。
ご存知のとおり、私の妻は旧浅井家家臣、磯野員昌殿の娘。
その間に、嫡男が一人おります。
羽柴筑前守秀吉の実弟であり、かつ、北近江にゆかりをもつ私が命に代えてもお守りし、織田の血を未来へ繋ぐと誓いましょう。
大殿への最後の忠義として、このお役目を担っていただけないでしょうか。
春の兆しが見えてきたとはいえ、北陸はまだまだ肌寒いはず。
使者に持たせた品を、お市の方、姫君様、そしておまつ殿にお渡しいただきたい。
北近江の者を代表して、美濃守秀長よりお贈りしたい。』
「羽柴美濃守……小一郎殿か」
利家にとって、秀吉は旧来の友。
そしてその弟である秀長は、家中でも最も信頼をおける、誠実なる調整役であった。
利家は呻くように息を吐き、文を握りしめた。
秀吉への友情、親父殿への義理、そして織田家への忠義。
秀長の文は、利家の心の隙間に、逃げ場のない楔を打ち込んでいた。
使者が持ってきた木箱を開けると、それぞれ違う色で染められた婦人用の綿入れの半纏だった。
最近、羽柴が長浜の商人に作らせ公家や大店の商人、大名たちに人気だと聞く代物だろう。
しかも、『まつ』にまでとは …
「……藤吉郎。お主の弟も、わしの腹の底を読み切っておるな」
田上山砦、秀長本陣 羽柴秀成
夜が明けてしばらく経った頃、父・秀長の下に使者が戻ってきた。
使者が差し出した書状を見た父が、安堵の表情を浮かべた。
「……よし、前田殿は動かぬな」
父・秀長の口から漏れたのは、歓喜の咆哮ではなく、祈りが通じたかのような深い溜息だった。
読み終えた書状を私にも見えるように広げてくれた。
そこには、明確に味方に付くという言葉はなかった。
しかし、ただ『春が来るのをここで待つ。預かり物を届けられるよう善処いたす』とだけ記されていた。
それは、剣を振るわず、静観を貫くという利家殿なりの精一杯の回答と読み取れた。
私が一通り目を通したことを確認してから、父が言った。
「前田殿は、表向きは柴田軍として布陣し続ける。だが、勝負のときが来ても、動かないということであろう」
「……戦が始まる前に、前田勢五千を無効化できたことは大きい」
私は小さく頷き答えた。
「三万の内の五千が動かないというのは戦局に大きく影響します」
「そして、そのことを柴田陣営が知らない。動くはずの味方が動かないというのは、作戦が根底から覆ることを意味します」
父が私の目を見つめ、
「『預かり物を届ける』というのは、お市様、姫様方をお救いするように動くということだろう。我らの思いが通じたようだ」
と言った。
「…これで、お市様と三人の姫君を救い出す糸口ができました。ありがとうございます」
見つめる父に深く頭を下げ、感謝の意を伝えた。
「お前に礼を言われることはない。羽柴として大殿への忠義を示すことができたのだ」
「礼を言うはこちらの方だ、秀成。お前が、忠義心の厚い前田殿であれば、お市様をお救いできるのではないかと提案しなければ、あの書状は書かなかった」
父は立ち上がり、陣幕の外に出て北の方角を見つめた。
まだ冷たい風が吹き抜ける中、父の甲冑の隙間から綿入れ半纏が見え隠れしていた。
「にしても、この半纏を甲冑の下に羽織ると寒さをまるで感じんな」
父は振り向き様に言った。
「以前、お初に送ったものと同じか?」
「我々の物は、甲冑の下に羽織られるよう少し薄くしております。母上にはもっと厚手で綿も多めに入れたものです。前田殿にお届けしたのは母上と同じものです」
私はそのように答えにこっと笑った。
私の笑顔に、父は『やれやれ』という感じの渋い表情をした。
「しかし、北ノ庄への贈り物として前田殿に預けるとは考えたな」
「長浜城の商人が作らせたという言葉とともに送れば、北近江がお市様らを慕う気持ちも伝わろうもの」
「はい。辛いお気持ちを少しでも温め、お慰めできればと思いました。伝わってくれればいいのですが」
笑顔のままそう答え、遠くに見える淡海の湖を見つめた。
黎明の光が、雪解けの水が流れ込む湖を青く照らし出した。
天下の行方を決める、運命の一日が始まろうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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