第68話 雪解けの刻限 ―秀吉の焦燥
天正11年(1583年)2月上旬 北伊勢・秀吉本陣/滝川一益
鈴鹿山脈を覆う空は、鉛色に低く垂れ込めていた。
時折混じる細かな雪が、泥濘と化した街道をさらに冷たく濡らしていく。
秀吉は、陣幕の中で火鉢を抱えるようにして、黒田官兵衛とともに地図を睨んでいた。
その瞳には、寝不足による赤い筋が浮き出ている。
「……滝川一益。あのクソ意地汚いじじぃが」
秀吉は、しわがれた声で毒づいた。
正月の急報は、羽柴陣営にとって手痛い「誤算」であった。
去る十二月、美濃の織田信孝を屈服させ、北近江の柴田勝豊を降したことで、少し油断を見せてしまった。
その間髪をついて、かつて織田家中で「進むも退くも滝川」と謳われた宿老・滝川一益が、死に体と思われた状況から鮮やかに牙を剥いた。
一益は、正月の新年の祝賀のため、関盛信・一政父子が安土に赴き不在になった隙を突き、亀山城、峯城、関城、国府城などを電撃的に次々に奪取した。
その後は、家臣たちをそれらの城に入れ、自らは長島城に立て籠もって秀吉と信雄の兵を足止めする作戦に入った。
今、秀吉が率いるのは数万の圧倒的な大軍である。
「筑前守様、あまり火鉢に寄りすぎると、お召し物が焦げますぞ」
からりと明るい、しかし芯の通った声がした。
「名人久太郎」こと堀秀政が、陣幕の内に入ってきた。
「秀政か……北の雪はどうだ。越前は、まだ動かぬか」
「はい。報告によれば、越前の雪は未だ人の丈を越えております。
修理亮殿が山を越えて近江に現れるのは、雪解けが始まる四月。……ですが、この伊勢を攻めあぐねていれば、挟撃されることになりますな」
秀吉は地図を叩いた。
「分かっておるわ! 三月までに北伊勢を更地にせねばならん。一益を長島に封じ込めつつ、他の城を力攻めで叩き潰す……長浜の小一郎には、死んでも北近江の防衛線を守らせねばならぬ」
現在、秀吉は軍を二つに分けていた。
自ら率いる主力の伊勢方面軍。
そして、秀長に預けている北近江守備軍である。
秀長の下には、石田三成や大谷吉継といった若手奉行衆を置いている。
三成や吉継は、秀長の息子・秀成と共に、兵糧の輸送路確保と、勝家軍を迎え撃つための陣地構築に奔走しているはずだ。
三成の潔癖なまでの実務能力と、吉継の冷静な戦術眼。
彼であれば、秀長の手足となって北近江を防備を完璧にしてくれるだろう。
「小一郎が後ろを支えてくれているからこそ、ワシはこうして前で暴れられる……あやつが諸将をまとめ易いよう『美濃守』の官職を用意したが、間に合ってよかったわ」
秀吉の脳裏には、先日、長浜から届いた秀長の書状があった。
今回の争乱によって北近江が一切動揺していないという、兄を安心させるための丁寧な文面。
こちらは任せよという確固たる自信。
だが、安心してばかりはいられない。
伊勢での戦いが長引けば、秀長たちを「袋のネズミ」にしてしまう。
そんなとき、近習の加藤清正が声を上げた。
「殿、蒲生忠三郎氏郷殿がお見えです」
幕を潜って入ってきたのは、銀の鯰尾兜を小姓に持たせた、一人の若武者であった。
蒲生氏郷※
近江日野の領主であり、織田信長公が「只者ではない」とその器量を愛し、自身の次女を娶らせた男である。
この時期は三十歳前
【作者註】
正確にはこの時期は賦秀を名乗っていますが、一般的に知られている氏郷で統一します。
「おお、忠三郎か。亀山城の様子はどうだ」
秀吉の問いに、氏郷は優雅に、かつ一分の隙もない動作で歩み寄り、頭を下げた。
「はっ。亀山城周辺の調略、滞りなく進んでおります。また、峯城への攻め口についても、拙者が先陣を承りたく」
淀みのない報告。
氏郷の声には、戦場の混乱を鎮めるような自信と不思議な落ち着きがあった。
秀吉は、改めて氏郷を観察した。
端正な顔立ちに、鋭い眼光。
何より、その立ち振る舞いには百姓出身の秀吉や、子飼いの若造たちには逆立ちしても真似できない鎌倉以来の名門
の気品があった。しかも、大殿(織田信長)の実の娘を娶っているという「織田一門」としての品格も備わっている。
大殿が生きていれば、この男は間違いなく織田家を背負って立つ巨頭になっていたはずだ。
(信長公の人を見る目は化け物よ……)
秀吉は笑いながら、それに応じた。
「そうか、順調に進んでおるか。今回の伊勢攻略は近江の諸将が主力だ。其方には期待しておる」
「忠三郎よ、峰城の攻略もそちに任そう」
氏郷は
「はっ」
と言うと、綺麗なお辞儀をして陣から出ていった。
氏郷が出ていってから秀吉は横に控えている官兵衛に声をかけた。
「流石は、大殿が愛された若武者よな」
秀吉の呟きに、官兵衛は、氏郷が出て行った先のを見つめた。
「……蒲生忠三郎殿。確かに、あれはただの若武者ではありませんな」
「そうじゃ。あれは永禄11年(1568年)のことだ。織田家が観音寺城の戦いで六角氏を破った後、忠三郎が臣従の証として岐阜へ送られてきた。まぁ人質よ」
秀吉は懐かしむように目を細め、かつての主君・織田信長の姿を思い起こした。
「大殿は、その人質を一目見るなり、こう仰ったという。『蒲生が子息、只者にあるべからず。我れの婿にせん』とな。人の器量を一瞬で見抜くあの御仁が、初対面の人質を自らの娘婿にすると決めたのだ。そんな話、後にも先にも聞いたことがないわ」
官兵衛は興味深げに頷く。
「信長公の眼力に叶った、というわけですか」
「それだけではない。大殿は奴をよほど可愛がられた。元服の際には自ら烏帽子親を務め、ご自身の官位である『弾正忠』から一字を与え『忠三郎』と名乗らせたほどだ」
秀吉の言葉通り、氏郷は信長の次女を娶り、名実ともに織田家の一門として厚遇されてきた。
そして、氏郷が、真にその器量を見せたのは、昨年の本能寺の変の際だった。
秀吉は感嘆の想いを込めて、官兵衛に説明する。
「本能寺で信長様が果てた報せが届いた時、奴は安土にいた父・賢秀と連絡を取り、即座に安土城にいた大殿の一族を保護した。そのまま居城の日野城へ退き、明智の軍勢に対して徹底抗戦の構えを見せたのだ」
「あの混乱の中で、己の保身より先に主家の血筋を護ることを考えた。その忠義と決断力、若造などと侮ることはできん」
秀吉は、再び銀鯰尾の兜を見据えた。
「あの男は、強すぎる。決断力、政治力、統率力だけではない。やつは自ら先陣を切るという武と胆力も持っておる……あのような男を使いこなしてこそ、天下を掴むことができるというものよ」
一拍
秀吉は官兵衛の顔を見て言った。
「この戦、一益を叩くには、氏郷の力が必要だ。やつの『名門の看板』と『戦の冴え』を、惜しみなく使わせてもらおう」
「御意、信長公と殿が買われる蒲生殿の能力を活かす戦略を練ることといたしましょう」
「伊勢の攻略も、思いも早く済むかもしれませんな」
官兵衛はそう言うと低い笑い声を上げた。
秀吉は再び地図に目を戻した。
北伊勢の要衝を一つずつ潰していく。
ここで、滝川一益に手こずるようなことがあれば、天は自分を見放すだろう。
なんとしても、春までに片付けねばならない。
「小一郎、秀成……北は任せておく」
「……勝家よ、雪の中で震えて待っておれ。お前が這い出してきた時には、逃げ場などどこにもないようにしてくれる」
羽柴軍は怒涛のごとく動き始めた。
滝川一益が奪取した各城は、一つずつ落とされていき、三月上旬には亀山が城門を開いた。
そして、一益は長島に押し込まれることになった。
いよいよ、この状況に耐えきれなくなった柴田勝家は、北陸の深い雪を踏み締め、重い腰を上げた。
賤ヶ岳という巨大な舞台装置が、いよいよ音を立てて回り始めようとしていた。
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