第66話 賤ヶ岳の胎動
天正11年(1583年)2月 近江・長浜/木之本周辺
長浜城では、連日、北近江の地図を囲み、白熱した軍議が続いていた。
父・秀長の重臣、桑山重晴が張りのある声で言う。
「筑前守様が伊勢へ向かわれた今、我らの責務は、長浜の手前で、柴田修理亮の南下を食い止めることにございます」
「北国街道の要衝、柳ヶ瀬で食い止めるのが常道でございましょう」
小堀正次が、几帳面な筆致で書かれた地図を広げて、指で示しながら説明を始めた。
「おっしゃる通り。まずは、余呉湖の北側、神明山、堂木山、東野山に強固な砦を築き、北国街道を南下してくる柴田軍を食い止めます。北国街道にも深い堀を持つ陣を築き、抜かれることのないよう防御を固めます」
その地図を見下ろしながら磯野が指摘する。
「余呉湖を回り込んでくるであろう敵軍から、北近江を守るため、南に広がる賤ヶ岳、大岩山、岩崎山にも砦を築き、防波堤とする必要があるな」
「幸い、北近江の民や国人衆は我らに協力的。彼らを動員し、急ぎ柵を組み、堀を穿てば、雪解けまでには間に合うであろう」
父が頷く。
「そうだな、その見立ては堅実だ……他に気づくことはないか? 遠慮は無用だ、どんな細かなことでもよい、気づいたことを述べよ」
その言葉に応じて、父の横で地図を見つめていた私は、ゆっくりと発言した。
「山々に砦を築き防波堤とする、まさに定石だと思います……しかし」
そう言って身を乗り出し、地図の中央に置かれた「柳ヶ瀬」の場所を触れた。
「勝家殿は、その『定石』を力でねじ伏せてきた歴戦の猛者です。単に山に砦を置くだけでは、一つが崩された瞬間に全体が瓦解します。点と点を結び、血を通わせ、一つの要塞にする必要があるでしょう」
秀成の言葉に、桑山が怪訝そうに問い返す。
「若殿……血を通わせるとはどういう意味でしょう?」
「兵站と情報の道のことです」
私は、小堀たちが描いた「点(砦)」の間に、幾筋もの線を力強く書き加えた。
「各砦を孤立させないよう、尾根の裏側に敵からは見えず、我らだけが迅速に移動できる『横堀』と『隠し軍道』を網の目のように張り巡らせます」
「勝家殿の戦い方は、砦を一つ一つ力技で抜いてくるというもの。鬼柴田の猛攻に耐えるには、砦が独立していては持ち堪えられません。余呉湖周辺を『巨大な防衛陣地』に作り替える必要があります」
藤堂は身を乗り出し、私が線をかき入れた地図を食い入るように見つめた。
「なるほど、山々を道で結び一つの曲輪に見立てるのですな。これなら、どこを攻められても、手薄にならぬところから救援に向かえます」
じっと聞いていた父が目を大きく開き、広間を見渡した。
「磯野殿、小堀、羽田。北近江の民百姓を動員せよ。秀成が言ったように柳ヶ瀬、余呉湖周辺を防御線で結ぶ」
「ただし、ただ働きはさせてはならん。米と銭をばらまき、突貫で作業を進めよ。奉行衆はその作業にあたってくれ」
「「ははっ」」
評定に参加している家臣一同が頭を下げた。
数日後、柳ヶ瀬、余呉湖周辺では、桑山や羽田、藤堂らの指揮のもと、かつてない規模の普請が始まった。
数千を超える民百姓に加え、長浜に駐留する1万の兵が、蒸気のような汗を吹き上げながら土を穿っている。
石田三成や増田長盛らが奉行衆が採用した「日当による労賃の支給」「温かな飯と味噌汁の支給」「交代制の労役」により、通常の数倍に及ぶ効率で作業が進んでいた。
余呉湖の北端、柳ヶ瀬の急峻な尾根を削る現場
「……おい、お前。さっきの握り飯、具は何やった?」
「梅だ。それも、漬けたばかりのええやつ。味噌汁には、クズ野菜じゃなくて、ちゃんと根菜が入っとったわ」
昼休憩の鐘が鳴ると同時に、土にまみれた百姓たちが、支給されたわらじを脱ぎ捨てて談笑し始めた。
その顔には、冬の厳しさへの苦悩はなく、未来に向けた明るさがあった。
「信じられん。普請に駆り出されて、その日のうちに銭が貰えるなんて……しかも、三刻(約6時間)働けば、次の組と代わってええと言う。夢でも見てるんじゃなかろうか」
「ああ、奉行の石田様がおっしゃってたぞ。これはお雇いであって、無理強いではないとな。米の代わりに銭が貰えりゃ、春の種籾も買えるし、年貢の足しにもなる」
一人の老いた百姓が、しみじみと自身の荒れた手を見つめた。
「わしら北近江の者は、浅井様の時分から何度も城を築かされてきた。だが、羽柴様が治めるようになって田畑や水路の普請が増え、収穫も見違えるように増えた」
別の百姓が割って入ってきて言う。
「以前、高月の里で水害が発生したとき、羽柴秀長様の御嫡男、竹若様のお力で水路を戻していただいたこともあったな」
老いた百姓が頷きながら答える
「若様は、北近江の守護神・磯野殿の血脈じゃ。わしらのことを常に気にかけてくださっておる。今、羽柴様がお困りじゃ。越前の柴田様との合戦に必死に準備されておる。今後はわしらがお助けするんじゃ」
「休憩は終わりだ! 次の組が来る前に、あそこの土留めを終わらせちまおうぜ!」
「おうよ! 羽柴の若様のために、もうひと踏ん張りだ!」
口々に語り合い、作業に戻っていった。
普請の監督をしていた藤堂高虎と大谷吉継が、驚きながら百姓たちの様子を見ていた。
そこには、自らの意志で泥まみれになり、活気ある声を掛け合う百姓たちの姿があった。
大谷が笑みを浮かべながら藤堂に語りかけた。
「……若君は民に慕われておりますな。播磨や但馬にいる間に、若様の麒麟児ぶりは耳に入っておりましたが、まさか領国内でこれほどの評価を受けておるとは、驚きました」
藤堂が答える
「わしも驚いた。しかも単に民に慈悲深いというだけでない。綺麗事ではなく、それが最も効率よく統治し、戦に勝つ道だと冷徹に計算されてもいる」
「藤堂殿、これは単なる城造りだけの話ではないぞ。若様は、民が自ら進んで『この方のために働きたい』と願うような御方だ。将来が楽しみよな」
大谷はそう言って明るく笑った。
眼下で響く百姓たちの笑い声は、彼らには新しい時代の産声のように聞こえた。
賤ヶ岳砦 羽柴秀成
本多俊政、羽田正親とともに、砦の普請を視察にきていた。
「若殿……余呉湖の南側にこれほどの普請が必要でしょうか」
俊政が不思議そうに呟いた。
「前の評定で出たとおり、余呉湖の北、神明山、堂木山、東野山が防衛線になるでしょう。長浜から補給を受けながら備えを固めるにはそこが最適。そこは抜かれていけない防衛線です」
「そして、この防衛線を後から支える重要な拠点が岩崎山砦。さらに、その砦を支えるのが大岩山砦で、その後方にあるのがここ賤ヶ岳砦です。数珠繋ぎで前方の砦を支えるように防衛線を築いています」
「その最後尾にあって、しかも最も標高が高く戦場全体を見渡せる位置にあるのが賤ヶ岳砦です。決して軽くみていい場所ではありません」
俊政と正親は、遠目に見える山々に目を向けた。
正親が、余呉湖の静かな湖面をなでる風を受けながら、ぽつりと言った。
「なるほど。一箇所を固めるのではなく、互いの砦が手を携えるように守ると。これが若殿が前の評定で言われた『血を通わせる』という意味ですな」
「これでは、柴田殿がどれほど一騎当千の兵を繰り出そうとも、一度にすべてを飲み込むことは叶いますまい」
俊政が感心して言った。
私は、二人の評価に少し照れ臭さを感じながらも、視線を北の空へ向けた。
「勝家殿の持ち前は突進力です。その勢いを、この数珠繋ぎの砦で削ぎ落としていく。鉄壁の防御で持久戦に持ち込めば、兵、銭、米のいずれでも上回る羽柴が勝つ。まさに『勝つべくして勝つ』です」
俊政と正親が深く頷く。
彼らにとって、この盤石な布陣こそが勝利の定石に見えているのだろう。
だが、私の視線の先にあるのは、目の前の余呉湖だけではなかった。
(ただ勝つだけではだめだ。……北ノ庄を、どうするか)
勝家を破れば、次は越前・北ノ庄城へ攻め込むことになる。
そこにはお市の方とまだ幼い三人の姫たちがいる。
お市の方様や茶々様たちが、炎を見ることのない未来をどのように作るのか。
白一色に染まる北の山々を眺めながら、思索を続けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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