間話 師走の文、幸せの種
天正11年(1583年)1月 近江・長浜城 羽柴秀成
天正10年 大晦日
振り返れば、この一年はまさに天のいたずらが歴史をかき回したかのような激動の年であった。
三月、名門・甲斐武田氏が滅亡。
六月、本能寺の変により織田信長公が非業の死を遂げ、その直後の山崎の戦いで秀吉が明智光秀を討った。
清洲会議を経て、織田家の屋台骨が揺らぐ中、十月には大徳寺での荘厳な法要。
そして十二月、電撃的に長浜と岐阜を屈服させた。
織田信孝殿を降伏させ、織田家当主・三法師様を確保したことで、天下の天秤は今、羽柴の側へと傾こうとしている。
安土城での論功行賞を終え、長浜に戻って来た私と父は、囲炉裏の火で冷え切った指先を温めていた。
柴田勝豊殿を京へ送り出し、家老の山路が全面的に協力する姿勢を示していることで、領内統治への懸念もなく、城内には束の間の安堵が流れていた。
そこへ、京の屋敷からの急使が到着した。
年末のしかも最後の日に届いた急使に、父は良からぬことが起こったのではないかと不安げな表情で、文の封を切った。
「お初からの文だ。何かあったのかも知れぬ」
そう言って、父は急いで文に目を通した。
八月頃から、京の山崎城で束の間の夫婦生活を共にしていたが、戦が始まってからは音信も途絶えがちだった。
そこに届いた妻からの文。
不安な思いで読み進める父の指が、ぴたりと止まった。
火の爆ぜる音だけが室内に響く。
父の眉が跳ね上がり、普段の冷静沈着な姿とは思えないほど、その目が大きく見開かれた。
「父上? 何か不吉な報せでも?」
私が尋ねると、父は文を握りしめたまま、震える声で呟いた。
「……お初が、孕ったようだ」
「えっ……」
私は一瞬、自分の耳を疑った。
「八月から九月にかけての……京での暮らしの間に、授かったらしい」
「十一月には確信し、ようやく三ヶ月に入って落ち着いたゆえ、報せてきたのだと……来年の夏には、子が生まれるようだ」
父の顔が、みるみるうちに赤らんでいく。
厳しい将軍の顔が崩れ、一人の男としての、戸惑いと歓喜が混ざり合った何とも言えない表情になった。
この報せは、瞬く間に城内に広まった。
ちょうど領内統治の進捗報告のために集まっていた家臣たちが、次々と広間に姿を現す。
「おお! 殿、まことにおめでとうございます!」
真っ先に声を上げたのは、藤堂高虎だった。大きな体を揺らし、自分のことのように破顔している。
「来年の夏には若君の弟か妹が! これは長浜防衛の士気も十倍に跳ね上がりますな!」
続いて桑山重晴が、相好を崩しながら進み出た。
「めでたきことにございます。すぐに京へ、安産を願う祈祷と御守りの手配をいたします」
「それと、奥方様の付き人を増やす必要がありますな。家臣の中から、出産の経験のある婦人を探しましょう」
小堀正次、羽田正親ら重臣たちも、代わる代わる父の前に進み、祝辞を述べている。
高虎は、早速、どこからか酒と盃を持ってきて、酒盛りの準備を始め出した。
「……皆、気が早い。まだ三ヶ月だというのに」
父は困ったように笑いながらも、その手はしっかりと、母からの文を懐へ仕舞い込んでいた。
宴のような騒ぎから少し離れ、私は城の回廊に出て雪の舞う空を見上げた。
(弟か、妹か……)
私の中身は八歳ではないが、この時代に誕生して以来、初めて感じる「血の繋がり」への不思議な感覚があった。
この時代、命はあまりにも軽い。
だが、父と母が愛し合い、この世に生まれた新しい命は、あまりにも重く、貴いものに感じられた。
背後で足音がした。振り返ると、父が立っていた。
「秀成……驚かせたな」
「いいえ、とても嬉しいです。父上、おめでとうございます。私も兄になるのですね」
「祝ってくれるか、感謝する」
「秀成からも、母に文を書いてやってくれ。大事な時に側にいてやれぬ。お前からも無事を祈る言葉を」
そう言って、父は私の肩に手を置き、北の空――柴田勝家が潜む越前の方角を睨んだ。
「もう一つ守るべきものが増えた。この先の決戦には何が何でも勝たねばならんな。次に生まれる子が、春の陽光を浴びられるかどうかが決まる」
父の言葉には、今まで以上の強さが宿っていた。
「明日から桑山、小堀、藤堂らと砦の検分に出る」
「砦の縄張り、防衛網の普請など学ぶものが多いはずだ。お前も同行せよ。戦場がどのようなものかしっかり身体で学んでおけ」
「はい。心得ました。喜んで同行いたします」
私は、築城の名手小堀や藤堂と一緒に、戦場の普請に出て、書物では学べない現場の知識、経験に触れることができることに内心、歓喜していた。
「父上、京の冬は底冷えします。母が寒さで体調を崩さぬよう、伊勢屋に作らせている木綿の上着をお送りしたいのですが」
ちょうど、伊勢屋宗右衛門に頼んでいた冬用の上着、いわゆる半纏の試作品が出来上がったばかりだった。
「宗右衛門が試作品を持っていますので明日にでもここへ持って来させます。それに父上の文を合わせて、お送りいたしましょう。母上は絶対喜びます」
私はニコニコ顔で、父に提案した。
父は、また勝手に変なものを作りおったのかという感じの呆れ顔をして、「そうだな」と一言だけ答えて、私の頭を少し力を入れた撫でた。
そして、長浜城の夜は、いつになく穏やかな祝杯の声に包まれて更けていった。
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本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
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