第7話 10万5千石の文
天正8年(1580年) 6月 近江・長浜城
帳簿の形が変わったのは、私が父に進言してから、わずか三日後のことだった。
文書蔵から運び出された古い帳面は、項目ごとに切り分けられ、村別、蔵別、役目別に仕分けされ、小堀の配下と羽田の配下に割り振られた。
新しく作られた帳面は三種。
蔵の実在庫を記す帳。
年貢と銭の出入りを記す帳。
命令と裁可を書き留める控え。
表紙には墨で大きく役目が書かれ、誰が見ても用途が分かる。
記帳役。
検算役。
確認役。
三人一組。
父は細かい指示を出さなかった。
「まずはやってみよ」
それだけだった。
不満は当然あった。
「二度手間では」
「今までも回っていた」
「殿の御目こそが正確さの証」
だが、七日もしないうちに数字が答えを出した。
蔵米と帳面の数が合わない村が二つ。
運送中の欠損が一件。
そして――役人の誤魔化しが一件。
羽田は静かに処断した。
父はそれを報告されても多くを語らなかったが、その夜、久しぶりに日が沈む前に執務を終えた。
母は驚いた顔で言った。
「殿、もうお休みに?」
「帳面が静かでな。今日は読むものが少ない」
その言葉に、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
だが、安堵は長くは続かなかった。
4月が終わる頃、父は再び播磨へ向かうことになった。
竹田城。
但馬と播磨の境目に築かれた山城。
城代は桑山重晴。
城代がいるとはいえ、任せきりにはできない。
領主が行かねばならぬ城でもある。
国衆との折衝。
城の普請。
検地のやり直し。
年貢率の再設定。
帳簿が整っても、現地に行かなければ決められないことは山ほどある。
出立の朝、父は鎧ではなく旅装だった。
「すぐ戻ります」
そう言って笑ったが、その目は忙しない。
母は何も言わず、ただ衣の襟を正してやった。
私は父の袖を掴む。
「父上」
「帳面は、桑山と前野に任せて」
「全部を見ようとしてはだめ」
父は少し困った顔をした。
「努力しよう」
そして、季節は進み――六月。
長浜の城下は、田植えを終えた百姓と、夏の市の準備に追われる商人で賑わっていた。
その昼下がり。
城門が騒がしくなった。
早馬。
播磨からの使者だった。
私は母のそばにいた。
使者は汗と埃にまみれ、膝をつく間もなく叫んだ。
「羽柴秀長殿に、御加増!」
母の指が、私の袖を強く掴む。
「但馬・播磨合わせて10万5千石」
時間が一瞬止まった。
あまりにもの衝撃で居合わせた者全員が言葉を失っていた。
やがて、母が意識を戻したようで、両手を重ねて言った。
「……有難きこと」
「殿の働きが認められたのです」
声は落ち着いていた。
だが、目の奥が揺れている。
「家中にも触れを。町にも」
母は静かに、側に控えていた小堀正次に指示を出した。
小堀はその声で我にかえり、慌てて応える。
「御方様、誠におめでとうございます。」
「はっ!お触れの件、直ちに」
と言うか早いか、普段は見せない忙しない足つきでバタバタと大きな足音を立てながら走っていった。
私は胸の内で呟く。
羽柴秀長に播磨・但馬10万5千石を与えられたのは天正8年(1580年)。史実どおり。
これまで、私の存在に関わらず、史実に沿って時代が動いている。
戦いも、その結果も、人の生死も。
私が生まれたころに近くにいた竹中半兵衛も史実どおり、昨年、病で亡くなった。
そして昨年、小堀正次の子、正一(後の遠州)が生まれた。
私は、しばらく黙って畳の目を見ていた。
私の存在は歴史に影響を与えていない。
努めて影響が出るようなことをしてないのであたり前かもしれないが…..
今から2年後に起きる本能寺の変、そして明智の討伐と織田家の取込。変に歴史に干渉してこの流れが変わることは避けたほうがいい。干渉が必要なのはその後から。
でもそろそろ、父の病死を防ぐ手立ては考えていかないと、病の進行に間に合わない可能性もある。
後で羽田に薬師のことを聞いてみよう。
10万5千石は喜びであって「重荷」ではない。今の父は、それを十分に背負える。
だから私は、言い方を選んだ。
「父上に……文を書きたい」
母が私を見る。
「お祝いの文ですか」
「はい」
「それと」
私は少しだけ間を置く。
「長浜のことも」
「帳面のこと」
羽田が小さく笑った。
「なるほど。殿にとっては戦勝報告より嬉しいかもしれませぬな」
「城よりも、蔵よりも、まず帳面を見る方ですから」
私は机に向かい、硯に墨を落とし、筆を持つ。
まだ幼い手だが、文字を書くことには慣れている。
私はゆっくりと書いた。
父上へ
但馬・播磨御加増の由、長浜にも届きました。
おめでとうございます。
こちらでは、帳面の形を変えました。
蔵の数、年貢の出入り、御指図の控えを分けて、
家臣たちが見ています。
数字が、少し早く集まるようになりました。
父上が戻られるまで、
長浜のことは心配なさらずに。
お身体を大切に。
竹若
書き終えてから、私はしばらくその紙を見つめた。
「よい文です」
「殿も、きっと微笑まれるでしょう」
羽田が腕を組む。
「殿は、戦の報告より、こういう知らせの方が好きですからな」
私は小さく頷く。
だからこそ、この人は政を任される。
城を落とす者は多い。だが、領地を経営できる者は少ない。
使者に文を託し、再び城門が閉じられる。
城下では、祝宴の支度が始まっていた。
酒樽が運ばれ、布が張られ、町人たちが声を上げる。
10万5千石の加増。
それは、羽柴家そして秀長が織田家中で一段高い場所へ上がった証だ。
私は縁側に座り、その様子を眺める。
風は穏やかだ。
空は高い。
父は今、竹田城で同じ空を見ているだろう。
帳面の束を抱えながら。
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