第58話 知の初陣
天正10年(1582年)11月上旬 京・秀吉屋敷 羽柴秀成
信孝と柴田への行動を決定した、その翌日
京の夜明けは、凍てつくような冷気に支配されていた。
屋敷の庭には霜が降り、竹林を揺らす風は刃のように鋭い。
「秀成、入るぞ」
廊下を歩く父・秀長の足音が、静寂を切り裂いて聞こえてきた。
「はい、父上」
私は読んでいた書物をおき、居住まいを正した。
部屋に入ってきた父を見上げると、その目には、いつもの温和な雰囲気はなく、鋭さが宿っていた。
「兄者が動くことを決めた」
「信孝殿が三法師様を安土へ移さぬ以上、我らは『逆臣を討ち、主君を救い出す』という大義を得た」
「これより北近江、長浜へ向かう。……秀成、お前の初陣だ」
(初陣……ついに、この時がきた!)
(しかし、おそらく後方の安全地帯までだろうが)
それでも、掌に自然と力が入る。
かつて織田軍を震え上がらせた浅井四翼が一人、祖父・磯野員昌の血が、この体にも流れている...のか、心が逸る。
「とはいえ、兄者が配慮し、お前の身に万一があってはならぬと、安土か佐和山での待機が命じられた」
「戦場には出さぬが、近くで戦を見届けるがいい。それがお前の初陣だ」
父は私の肩を強く叩いた。
子供への気遣いというよりも、一人の武士として扱おうとする父の意志が伝わってくる。
なにより、佐和山城は、磯野員昌の居城だったところだ。
祖父は、浅井対織田の決戦において、佐和山城に立て籠り、最後は孤立して降伏した。
祖父と一緒に佐和山城に入ってみたい。
そんな逸る気持ちをぐっと堪え、妥協案を提示する。
「安土か佐和山まで……わかりました」
「ですが、ただついて行くだけでは学びになりません」
「父上の評定に、隅の方でも構いませんので、参加させていただきたいです」
秀長の眉が、わずかに跳ねた。
「勉強熱心でよいいことだ。参加を許す」
「ただし、聞くだけだ。私の許可なく発言はするな、いいな?」
(まぁ、そうだろうな)
(幼少の嫡男がずけずけと評議に口を出しては示しがつかない)
(これまでは基本的に身内の中だったため、許されていただけだ)
そう納得し、「はい。わかりました」と素直に答えた。
「それと...お前の初陣をお初に報告せねばならん。一緒に来い」
(あぁこれは、自分だけで行きたくないやつだ)
(母上は絶対に不安がるし、なぜ連れていくのかと愚痴られかねない)
(本人が初陣を喜んでいれば、母上も父を真正面から責めにくい...父上はそう考えたな)
(私一人でも、母の悲しく不安そうな表情を見せられると、心が痛む)
私はそう思い、
「私も、すぐに母上に報告したいと考えておりました。喜んでくれるといいのですが」
それを聞いた秀長の顔が明くなった。
「では、今から参ろう。お初もきっと喜ぶはずだ」
静かに、対妻・母の同盟を組んだ父子が、馬に乗り母がいる山崎城に向かった。
昼前に山崎についてから、日を挟んで丸一日、落ち込んだ妻と母を必死に慰める秀長と秀成の姿があったという。
数日後、秀吉軍の主だった者で軍議が開かれた。
軍議の席には、
羽柴秀吉、羽柴秀長、黒田官兵衛、堀秀政。
その周りには、軍を支える奉行衆、浅野長政、石田三成、増田長盛が、馬廻衆から大谷吉継が座っていた。
そして、末席に、私も同席させてもらっていた。
改めて見ると、石田、増田、大谷いずれも北近江の出身だ。
秀吉が、抜き身の刀のような鋭い視線で一同を見渡した。
「……信孝殿は、動かぬか」
「はっ」
官兵衛が、淀みない声で応じる。
「三法師様を安土へとお戻しせよとの最後通牒にも音沙汰はございませんでした」
「黙殺どころか、柴田殿と連絡を取り、密かに兵を募っております……」
「越前に初雪が降ったと報せが届きました」
父・秀長が静かに口を開いた。
「雪が積もれば、越前の大軍は峠を越えられません」
「これから、春まで柴田殿は動けませぬ」
秀吉の唇が、不気味なほど吊り上がった。
「勝家が雪を友としている間に、わしらはその喉元を喰らう」
「官兵衛、地図を広げろ」
官兵衛が扇子で地図の一点を指した。
北近江、長浜城だ。
「まずはここ、長浜を即刻奪還する必要がございます」
「北近江は柴田殿の領国において孤島も同然」
「援軍の来ぬこの城を、まずは大軍の示威と調略をもって一気に呑み込みます」
「長浜を抑えれば、次は岐阜だ」
秀吉が身を乗り出す。
「信孝殿は岐阜城に籠もるつもりだろうが、北近江を抑えた後では勝家から援軍は来ず、逃げ道もない」
軍議は淀みなく進む。
石田三成らが兵糧の備蓄状況を報告し、増田長盛が物資の輸送路を補足する。
完璧な兵站管理だ。
これが、羽柴が戦に負けない真の理由だと、改めて肌で感じた。
「小一郎、長浜城をどう攻略する?」
秀吉が、父に顔を向けて尋ねた。
「はっ」
「我らは、清州の会議の前から、北近江に人を入れ国人衆や寺社、商人たちを懐柔してまいりました」
「今回、柴田勝豊殿が兵を集めようとしても、それほど多くは集まりませぬ」
父がそう言うと、奉行衆から「おぉ」という呻き声があがった。
それほど前から、今回の動きを見越して対応していたことへの驚きと、畏敬の念が伝わってくる。
父は構わず続ける。
「それに、調べたところ、勝豊殿は叔父である勝家殿を恐れる一方、相当不満を抱えている様子」
「勝豊殿は、子がいなかった勝家殿の養子になりましたが、後に勝家殿に実子ができ、跡継としての資格を失っております」
「さらに、勝家殿は、同じく甥である佐久間盛政殿を重用するようになり、勝豊殿を軽んじられるようになった。そのような不満を漏らしていると聞き及びます」
官兵衛が補足するように口を挟む。
「今回、長浜城主とされたのも、捨て駒にされたのではと疑っているとか」
そう言ってくすくす笑った。
「その噂を流したのは、我らよ」
「のう? 小一郎、秀成?」
秀吉が父を見た後、私の方に目をやって、大きく笑った。
どういうことかわからず顔を見合わせる奉行衆。
彼らに説明するように父が話す。
「清洲の会議で北近江を手放すことになってすぐ、配下の者を潜らせておりました」
「国人衆や寺社、町衆の間に、勝家殿は勝豊殿を疎んじている、排除したがっていると吹き込ませておりました」
「おぉ」
と、再び奉行衆が感嘆の声を上げる。
「秀成、お主の読みどおりか?」
秀吉が、末席に座る私の方を見て、問いかけてきた。
全員の目が、私に集中する。
「はい、長浜城主に勝豊様の名が上がった時点で、不仲であることは噂で伝わっておりました」
「ならば利用しない手はありません。それに、失敗してもこちらには損はありません」
「もともと、不信感があったところに、それを裏付ける噂。易々と信じたことでしょう」
私がそう言うと、軍議の場から音が消えた。
秀吉と父、官兵衛は、最初から知っていたため、驚きはない。
しかし、他の者は全員、目を見開き、あるいは口を開けたまま固まっている。
それを見ていた秀吉が大音声で笑った。
「わははははっ!」
「どうじゃ?驚いたか?」
「皆を驚かせようと思ってな。これまで黙っておったのよ」
「お主らのその顔を見られて、黙っていてよかったわ」
「のう? 小一郎?」
父は困ったように、しかし満更でもない表情で、大きく頷いた。
奉行衆を代表して、親族でもある浅野長政が口を開く。
「今のお話からすると、この策は秀成様が考えたということでしょうか?」
奉行衆の目が秀吉に集中する。
「そうじゃ、そう言うとるだろうが」
「北近江に人を残すのであればこうしろと、秀成いや、その時はまだ竹若だな、が言いおったのよ」
「うまくいったの? 秀成」
秀吉は上機嫌で、私の名を何度も呼ぶ。
ここで、有頂天に答えてはいけない。慎重に。
「はい。父上の家臣たちが上手く噂をばら撒いてくれました」
「彼らのおかげです」
そう言って、頭を下げた。
秀吉は満足げに私を見た後、扇子で軽く膝を叩いた。
「よし。この話はもうよい。次に移るぞ」
「官兵衛、これを踏まえて献策せい」
(次に続く)
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