第54話 秋霜の診察
天正10年(1582年)10月下旬 京・秀長邸 羽柴秀成
10月も下旬に入ると、風に混じる冷たさが肌を刺すようになってきた。
京の情勢はようやく落ち着きを見せ、羽柴が織田の中枢に根を張るための足場固めが着々と進んでいる。
先日、大徳寺において、盛大な葬儀が執り行われた。
秀吉が天下への名乗りを上げたその裏で、実務を差配したのは父・秀長だ。
中国大返しからの強行軍、山崎の戦い、清洲会議。
その間、父は寸暇を惜しんで働いてきた。
常人なら、三度は病に伏しているはずの怒濤の数ヶ月を経て、今、少しの休養をとっていた。
京の中心部にある寺院の本坊を改修し、京での秀長邸として使うようになっている。
元服後の秀成もここに滞在している。
「父上、失礼いたします」
「例の薬師を連れてまいりました」
私が声をかけると、書状に筆を走らせていた父が顔を上げた。
父は一瞬、呆気に取られたように私を見た。
それから「……左様であったな」と、降参したように深く溜息をついた。
先日、激務が続いている父を心配した母が、私に使者を寄越し、あれこれ確認してきた。
前にお願いした薬膳をしっかり食べているか、丸薬は飲んでいるか、夜は寝ているかと。
私も、寒さが本格化する前に、そして次の戦が始まる前のこの時期に、父の体調を確認し、念押ししたいと思っていたところだった。
これを幸いに、使者と共に父の前に進み、母の心配を伝えた。
「母上が案じておられます」
「以前、お渡しした薬膳の献立、丸薬はいかがでしょうか?」
父は、私と使者の顔を見据えて、はっきりとした口調で答えた。
「屋敷におる間は、毎朝きちんと食べておった。この屋敷でもな」
「私が言わなくても勝手に出てくる。それに、外にいるときは、毎食、丸薬が置かれておる」
「ちゃんと約束は守っておるから安心せい。そう、お初に伝えてくれ」
使者は「はっ」と言って頭を下げた。
「お疲れのほどはいかがでしょうか?」
私は、心配そうな表情を作って父に問いかけた。
「調子はよい。夜もしっかり寝て、養生に心がけておる」
「以前に、お前に言われたとおり、部下に仕事を回しておる」
「優秀な奉行衆が増えたのでな」
「それは何よりでございます」
「しかし、きちんと薬師を呼んで、詳しく診ていただきましょう」
「……大げさな。大丈夫と言うておろう」
「薬膳を食べ、丸薬を飲んでおれば十分よ」
「父上」
私は一歩踏み込み、父の目を見据えた。
「今、父上がお倒れになっては、皆が困ります」
「母の心配も晴れませんので、ぜひ薬師に診ていただきたく」
そう言って、しぶしぶ薬師を呼ぶことを了解してもらった。
薬師が父の脈を取る。
静寂の中、薬師の表情が驚きに変わった。
「……いかがかな」
父が余裕の笑みを浮かべて問う。
「驚き入りました。これほどの激務にあって、胃腸の気が衰えておりません」
「むしろ、以前より脈の打ち込みが力強いほどでございます」
薬師は感嘆したように首を振った。
「丸薬を欠かさず、さらに眠りを削らぬよう努めておられるとか」
「若様の仰った『補中益気』、見事に体現されておいでです」
「そうか。そうか」
父は笑顔を浮かべ頷いている。
以前より健康になっていると言われ、嬉しいのだろう。
それよりも、妻に怒られずに済んで、喜んでいるのかもしれないが。
私は安堵の息を吐いた。
「薬師殿、今の父上に、さらに加えるべきものはありますか?」
「左様ですな。今は気が張っておりますゆえ、無理が利いております」
「しかし、これからは冬の寒さが身体に入り込みます」
「丸薬に、少しだけ体を温める『乾姜(生姜の根茎)』を加え、血の巡りを助けましょう」
「現状の健やかさを『維持』することに専念なされば、来年の雪解けも万全で迎えられましょう」
「なるほど、寒さに強い身体を作るということか」
「薬師殿の言うとおりにしよう」
父は満足げに頷き、机の上の丸薬を一粒、菓子でも食べるかのように口に放り込んだ。
薬師が下がり、侍女が茶を運んできた。
それに、桑山重晴、藤堂高虎、小堀正次がついて来た。
「薬師に聞きましたが、体調に問題はなかったようですな」
「我らも安心しました。ここ数ヶ月は働き詰めでしたからな」
桑山がそう言うと、家臣たちがうんうんと頷いた。
そして、高虎が穏やかに言った。
「近頃は、殿の顔色がよいと評判になっておりました」
「奥方様の薬膳と丸薬を口にしたいという声もありますぞ」
家中にそのような声が広がっていることを知り、父は満更でもないようだ。
「そうだのう、お主たちの身体に何かあっては、私が困る」
「よし。私の家中で、献立と丸薬を摂れるよう手配しよう」
「秀成、用意できるか?」
「今は、あの薬師殿の周辺で作っておりますが、それでは足りません」
「本格的に薬商に作らせることにいたしましょう」
「伊勢屋と相談いたします」
「若様、よろしくお願いいたしますぞ」
桑山はにこにこ顔だ。
主人の嫡男がこうやって商人とも通じ、家中のことを差配しているのが嬉しいのだろうか。
「寒さと言えば」
「伊勢屋に作らせている木綿の足袋が活きてきますな」
小堀が言った。
昨年の秋、鳥取城攻略にあたって、足を守るために用意させた足袋だ。
麻とは段違いに生地が厚く温かい。
それに父が答える
「冬の戦にも備えねばならん」
「伊勢屋に増産するよう伝えてくれ」
小堀が「はっ」と応じる。
そして、父は私を見て、悪戯っぽく笑った。
「秀成、お前が薬師を呼んでくれたおかげで、お初を安心させることができそうだ」
「これからもしっかりと療養することとしよう」
この時代、多くの武将が過労と不摂生で寿命を縮める中、父はしっかりと「養生」という意思を持ったようだ。
家を保ち、興隆に導くには長寿が重要な鍵だ。
三好長慶しかり、武田信玄しかり、志半ばで倒れたことで家が傾いた例はいくらでもある。
「はい。母上から、監視を頼まれています。怠るようであれば母に言いつけますので」
私がそう言うと、父は声を出して笑った。
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