第52話 月下の兄弟ー信吉と秀成
天正10年(1582年)10月 京・山崎城 羽柴秀成
翌日の夕刻
山崎城の城下、秀吉邸の庭では、虫の声が揃い、風が竹垣を撫でる。
戦の年であることを忘れさせるような静けさが、座敷に満ちていた。
奥座敷に、家族だけの祝いの席が設けられた。
秀成の元服の祝い参加していた三好信吉(秀吉の姉の子、秀成とは従兄弟)も同席している。
上座に秀吉
その少し下に秀長
向かいに三好信吉
その隣に、烏帽子姿の秀成
ねね様と母・お初も、夫と並んで座っている。
それぞれに祝いの膳が並べられ、酒盃が回る。
秀吉が大きく笑った。
「さて、秀成。元服した気分はどうだ」
私は背筋を正した。
「本日は、厳かな式を整えていただき、恐れ入ります」
「秀成の名に恥じぬよう、御期待に応えられるよう精進いたします」
「……ただ、少しばかり、身が震えています」
秀吉の目が笑う。
「ははっ。お主でも緊張はするか」
「もっと平然としておるかと思ったわ」
「それにしても、小一郎、お初殿、めでたいの」
父と母は「誠に」と短く述べ、静かに頭を下げた。
ねね様がやわらかく口を添える。
「本当によかったですね」
「このように立派に成長して、うれしく思います」
「でも、普通より随分早めの元服ですから、無理をなさらないように」
「頼ってくれていいのですよ」
秀吉が陽気に笑う。
「はははっ ねねは本当に竹若に甘い」
「お初殿が子離れしようと我慢しておるのに、お前が離れなくてどうする」
ねね様が不貞腐れたように答える。
「母にとって子はいつまでも子でござます」
「お初殿、無理はしてはいけませんよ。大いに頼ってもらいましょう」
そう言ってねね様がくすくすと笑うと、つられて母も小さく笑う。
座が和む。
ねね様は流石だ。
羽柴の家の大黒柱は秀吉ではなく、ねね様なのかもしれない。
改めてそう思った。
場が和んだのを見計らい、信吉が横から私の顔を覗き込みながら声をかけてきた。
「こいつは、いつも澄ましているからな」
「今日は珍しいものが見られてよかった」
「駆けつけた甲斐があったわ」
私は、信吉の方へ顔を向けて、答えた。
「このような時に、緊張するのはあたりまえです」
「それを言うなら、兄上の時はどうだったのですか?」
にやりと口元に笑いを浮かべ、秀吉の方をチラッと見た。
それに気づいた秀吉は、顎に手をあて思い出すような仕草をする。
信吉が即座に大きな声で言う。
「いやっ 私のことはどうでもよい。昔のことで覚えておらぬ」
「そうでしょう?叔父上?」
「今日は竹若、いや、秀成の元服の話をいたしましょう」
なにやら思い出したくないことでもあるのか、信吉は必死で話を変えようとする。
そのあたふたする様子に、皆が声を出して笑う。
さらに、場が和む。
信吉は、もう十五。
背も高く、声変わりも済ませ、立派な青年になっている。
(本当の兄のようだ)
(家族だと思ってくれている。それが何よりも嬉しい)
秀長が盃を置いた。
「よいか、秀成」
声は穏やかだが、場が締まる。
「今日よりお前は、羽柴の名を負う」
「だが――まだ八つだ」
「急がず、学べ。そして、頼れ」
「一人で背負う必要はないぞ」
その言葉に、胸の奥が少し軽くなる。
秀吉も続ける。
「必要あっての元服だ」
「今すぐ重責を負わせる気はない。気負わずやれ」
「困ったことがあれば、ねねを頼るといい」
秀吉がそう言ってねね様の方をちらっと見る。
ねね様は、満面の笑みを浮かべて、大きく頷いた。
三好信吉
信吉は、そのやりとりを見ながら、胸の内で思う。
(温かい)
(気心の知れた家族というのは、いるだけで心がやすらぐ)
だからこそ、まだ八つでしかない竹若が元服することに抵抗があった。
いくら早熟とはいえ流石に早い。
あと少しこの温かさの中でいさせてやりたかった。
しかし、そう思っていたのは自分だけでなかった。
この場の全員が同じ思いであったことを知り、少し安堵した。
信吉は盃を持ち上げ、秀成に差し出す。
「飲まなくてよい。祝いの儀式だ」
「お前も、盃を取れ」
そう言われた秀成が居住まいを正し、盃を挙げた。
信吉はゆっくりと説いた。
「重いものは分けよ」
「昔、お前が秀長殿に言った言葉だそうだな」
秀成が目を瞬く。
信吉は少し照れくさそうに笑った。
「外に出てはいるが、私はお前の兄のつもりだ」
「弟に多くを背負わせはしない」
「ねね様だけでなく、私にも頼ってくれ」
そして盃を前に差し出しながら続ける。
「元服、誠におめでとう」
「共に羽柴を盛り立てよう」
秀成は声を振るわせ「はい」とだけ短く答えた。
そして、信吉の目を見つめたまま、盃を前に出し、少しだけ口につけた。
周りの大人たちは静かにその様子を見守っていた。
皆の目は潤んでいるように見えた。
静かさを破るように、秀吉が大きな声で話す。
「信吉。よいことを申す。その通りじゃ」
「共に、羽柴を盛り立てくれ」
それを合図に、秀吉と秀長も盃を交わし、食事に手をつけ出す。
ちょうど腹の減りも限界だった。
信吉も目の前の膳に手を伸ばす。
隣では、秀成も同じだったのか夢中で食べている。
その姿を見ながら、信吉は思った。
(元服したとは言え、秀成はまだ幼い。私が守らねば)
(いずれ横に並んで羽柴を盛り立てるときがくるのが楽しみだ)
羽柴秀成
秀成は、食事に手を伸ばす信吉の横顔を見つめる。
(この人は―)
未来を知る心が、わずかにざわめく。
いずれ秀次となり、秀吉の養子となった後ーー
胸の奥が冷える。
しかし、史実において、彼は1585年前後に秀次を名乗ることになる。
それよりも前に、私が「秀」の偏諱をもらうことになった。
今の段階では、序列は秀成の方が上だろう。
秀次の環境が確かに変わり始めている。
(私が守らねば)
(素直に愛情を向けてくれるこの兄を大切にしたい)
食事が終わったころ、信吉が袖を引いた。
「秀成、庭へ出よう」
月下。
秋の空気が冷たい。
信吉が言う。
「重くはないか?大丈夫か?」
私は正直に答える。
「重いです」
信吉は少しうなずく。
「正直でよい。お前らしい」
「なら、半分よこせ」
信吉は照れたように空を見上げる。
「これでも、私はお前の兄のつもりだ」
その言葉は、思ったよりも真剣だった。
私は胸の奥が締めつけられる。
未来の影が、月明かりの下でわずかに揺れる。
「兄上」
私は静かに言う。
「共に、羽柴を大きくしましょう」
信吉は肩を揺らして笑った。
「ああそうだな。一緒に大きくしていこう」
「お前の知謀と算術があれば百人力だな」
(歴史は、まだ固まっていない)
私は心の内で誓う。
この兄を守る。
この夜の温もりを、守る。
月は静かに、京を照らしていた。
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