第50話 嫡男の元服、母の決意
天正10年(1582年)9月 京・山崎城 羽柴秀長
黒田官兵衛が退室したあと、座敷には兄弟だけが残った。
秋の光が障子を透かし、淡く畳を照らしている。
秀吉はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「小一郎」
「本来であれば、法要は亡き大殿のため、織田家のためのものだ」
「その心は、わしにもちゃんと残っておる」
「承知しています」
秀長が静かに頷く。
秀吉も頷き、そして続けた。
「しかし、今やそれは、政略の道具よ」
「大殿は怒っていような...いや、あの御方なら大笑いしておられるだろうか」
「猿が、自分の跡、天下をどう手中にするか見届けてやるわ、などと言ってな」
そう言うと、目を瞑って天井を見上げた。
ずいぶんと時間がたった。
秀吉はゆっくりと目を開いた。
その目は、澄んでいる。野心の炎ではない。
計算された冷えた光だった。
秀吉は先ほどとは打って変わって、はっきりとした口調で言った。
「先ほど言ったとおり、秀勝殿を喪主に立てる」
「葬儀の主催はわしだ」
「お主は、わしの代わりに羽柴軍を指揮し、洛中の警護にあたれ」
秀長は頷いた。
しかし、先ほど既に聞いた話だ。
なぜ繰り返すのか...その意図を図りかねた。
秀吉の表情には笑みが浮かんでいた。
兄がいたずら心を出すときの顔だ。
「羽柴の重鎮たる秀長が警護のためとは言え、葬儀に参列しないのは外聞が悪かろう」
秀長は何も言わず聞いていた。
「代理として、竹若を参列させる」
秀長の眉が大きく動いた。
「竹若を....」
「そうじゃ」
「まだ童にございますぞ」
「天下の目はこの葬儀に集まる」
秀吉は静かに続けた。
「羽柴は一代の武功で終わる家ではない」
「家として、立たねばならぬ」
座敷に、短い沈黙が落ちる。
秀長は、父の顔になる。
竹若は、まだ八つ。弓を引く腕も細い。
戦場に立たせたこともない。
いくら麒麟児という世評があっても、まだ子供...
なにより、お初がどう思うか。
秀長は、なんとか言葉を捻り出した。
「未だ元服前にございます」
秀吉は即座に答えた。
「ならば、元服させればよい」
「法要の前に、整える」
秀長はゆっくりと息を吐いた。
「早すぎではありませんか?竹若はまだ八つです」
秀吉は小さく笑った。
「乱世に、早いも遅いもないわ」
「家が必要とするときが、その時だ」
「それに、彼奴なら問題なかろう。八つという方が嘘くさいわ」
そう言って大きく笑った。
「本能寺の変事を告げた文を覚えておろう? 成すべきことを成せだったか」
「あのとき、元服したのも同然よ」
その声には、揺らぎがない。
秀長は理解していた。
こうなっては兄の言葉を覆すことはできない。
秀長は兄・秀吉の目を見据え、はっきりと言った
「承知しました。吉日を選び、元服させまする」
「お初も喜びましょう」
秀吉は満面の笑みで答えた。
「そうであろう。嫡男の元服だ」
「お初殿も、さぞ喜ぶに違いない」
一拍置き、秀長が真剣な面持ちで、秀吉に問いかけた。
「兄者に、烏帽子親、名付け親になっていただけないでしょうか」
烏帽子親は一門の棟梁が務めるのが慣習。
烏帽子親になった主君は、その子を自分の家臣の一員と認め、後見人として将来を保障するという意味を持った。さらに、秀吉に子がない状況では、一族内で高い序列(実質的なナンバー2候補)に据えられることも意味する。
また、秀吉から偏諱(二文字の名前のうち一字)を賜ることで、他の家臣や親族よりも一段高い権威を帯びることになる。
秀長は、竹若の将来を見据え、羽柴家内での地位の確保を図った。
それでなくとも、兄は竹若を養子にするつもりだ。
それはあらゆる言動から伝わってくる。
であれば、早期にその路線を確実にし、竹若の将来の安定を図ることが肝要。
「わしが、烏帽子親と?」
秀吉は、秀長を見つめた。
その目は笑っているようでいて、鷹のような鋭さだ。
秀長も真剣な目で秀吉を見つめる。
「…はい。兄上は羽柴の棟梁。竹若が真に武家として歩み出すには、兄上の力が必要です」
そう言って、秀長が深く頭を下げる。
一拍
「はっはっは! よいぞ、小一郎」
「わしが、烏帽子親と名付け親になろう」
「わしの秀の字を与える、もう一字はお主から与えよ」
「元服の式が楽しみだな」
秀吉は、秀長の意図と覚悟を理解し、それを受けた。
秀長は兄の前を辞し、静かに自室へ戻った。
廊下を歩く足取りは重い。
秋の光が細く差し込み、影を長く引いている。
襖の前で、一度足を止めた。
中から、衣擦れの音がする。
「お初」
声をかけると、すぐに返事があった。
「はい」
襖が開く。
お初は端然と座していた。
夫の顔を見るなり、何かを察したように目を細める。
「お義兄様と何かございましたか?」
秀長は、短く息を吐いた。
「竹若を、今度の法要に参列させることになった」
一瞬、空気が止まる。
お初の指先が、わずかに動いた。
「……それは、光栄なことでございます」
声は穏やかだ。
秀長は、一瞬の間が、何を意味しているのか知っている。
だが、言葉を続ける。
「元服させる」
「兄が烏帽子親を務めることになる」
お初の瞳が揺れた。
そして、秀長の目をまっすぐに見つめて問いかけた。
「まだ、八つでございます」
それは、責める声ではない。
ただ、息子を思う母の声だった。
秀長は静かに頷く。
「確かに早い。だが、必要だ」
「兄上の強い意向だ。曲げられぬ」
沈黙が流れる。
庭の虫の音だけが、細く続いている。
お初はゆっくりと顔を上げた。
その目には涙を浮かべていた。
それが、流れ落ちないよう必死に堪えている。
「本当は……」
言葉が途切れる。
「まだ、私の膝に甘える子であってほしい... そう思います」
秀長の胸が、締めつけられる。
「確かに、竹若は早熟かもしれません」
「大人に混じって議論できるほどに」
「しかし、マルと一緒に声を出して庭を走り回る...そんな子供です」
「馬の稽古もまだ途中でございます」
その一つ一つが、母の記憶だ。
秀長は目を伏せた。
お初は、しばらく黙ったまま座っていた。
やがて、深く息を吸う。
そして、すっと背を正した。
「ですが」
声が変わる。
「羽柴の男でございます」
「家のために立つのなら、私が止めてはなりません」
秀長は顔を上げる。
お初は、微笑んでいた。
作った笑みではない。決意の笑みだ。
「私は、竹若の母でございますが」
「同時に、武家の妻でもございます」
「いつか子が立たねばならぬことは理解しております」
「それが、わずかに早まっただけ」
秀長は、深く息を吐いた。
「すまぬ」
お初は首を振る。
「謝ることではございません」
そして、柔らかく言った。
「名は、決まっておりますか?」
「秀成」
秀長は答える。
「家を成す、大成を成す、平和な世を成す、そのような成だ」
「秀の字は兄者から頂戴した」
お初の目が、ほんのわずかに潤む。
「秀でて、成す……」
「良い名でございますね」
その声は、本心だった。
「では、本人を呼びましょう」
お初が立ち上がる。
廊下に出て、小姓に告げる。
「竹若殿をここに」
お初
ほどなくして、足音が近づく。
まだ軽い足取り。
襖が開き、竹若が入ってくる。
無邪気な顔。
だが、目は澄んでいる。
お初はその姿を見て、一瞬だけ目を閉じた。
―まだ、幼い。
次に目を開いたとき、その迷いは消えていた。
「竹若殿」
努めて穏やかな声で話かける。
「お父上から、大切なお話があります」
竹若は、秀長の近くまで進み、静かに座った。
秀長は、一呼吸おいて静かに言う。
「近く、京において、亡き信長公の法要を執り行う」
「お前には、それに参列してもらうことになった」
「子供のままでは参列させられぬゆえ、吉日を選んで元服させる」
竹若は、驚かない。
ただ、短く答えた。
「はい」
その一言に、迷いはなかった。
お初は、我が子を見つめる。
ああ、この子はもう、家の子だ。
そう思うと胸が締め付けられる。
溢れ出る感情をぐっと抑え、微笑む。
「立派におなりなさい」
「竹若殿」
竹若は、母を見つめ、深く頭を下げた。
秋の光が、三人を照らしていた。
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本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
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