第48話 淡海の香
天正10年(1582年)9月下旬 近江・長浜
十数日後。長浜。
北国街道に柴田の旗が立った。
槍持ちが道を割り、人々が膝を折る。
その列は、勝家の“力”を示すためではなく、お市の方と3姉妹を、越前へ運ぶための儀式であった。
長浜では、勝豊の手配により、城下の警固、宿の整備、寺社への触れが行われ、丁重に一行を迎え入れいれる準備が行われていた。
昼過ぎ、
一行は城下の一角に設けられた御座所に入った。
お市の方は輿を降りると、ゆっくりと顔を動かし周りを見渡した。
警戒したわけではない。
愛郷の気持ちがそうさせた。
かつて、夫と暮らした土地。
幼い娘との束の間の幸せが詰まった場所への懐かしさだ。
勝家は余計な言葉をかけずそっと見守っていた。
そして、静かに言った。
「……参ろう。浅井殿の菩提寺へ」
今回は非公式の参拝。
表向きの儀式ではないが、そこに勝家が施した意図がある。
寺の境内は、ひと足先に秋の気配が漂っていた。
線香の香が細く立ち、杉の影が揺れる。
お市の方は、浅井の墓前に進み、手を合わせた。
3姉妹も共に進み、同じように手を合わせる。
言葉はない。涙もない。
ただ、長い沈黙が、お市の方を現在から過去へ引き戻した。
勝家は、少し距離を置き、視線を外す。
この沈黙は妻のものだ。自分が無粋に踏み込めんではならない。
勝家は生粋の武人であるが故に、このような人の情を重視する。人の情を利用することはできない。
参拝が終わり、寺を出て御座所に戻ると、城下の者たちが控えていた。
北近江の国人、商人、僧侶、町衆たちだ。
その中に、伊勢屋宗右衛門もいた。
それぞれが城主勝豊、勝家に婚礼を祝う言葉を伝える。
そして、商人を代表して宗右衛門が、勝豊と勝家に、祝いの品を献上した。
一通り祝いの挨拶が済むと、勝家は場を変えた。
この機会に有力者に会い、今後の協力を取り付ける交渉をしておかねばならない。
その時、宗右衛門が、控えの侍女へ一歩だけ近寄った。
声は低く、しかし堂々と。
こそこそしなければ、疑われない。
「姫様方へ、道中のお慰みに。長浜の町衆から、ささやかなお守りでございます」
侍女は一瞬、目を細めた。町衆がなぜ姫君に。
しかし、次の言葉が疑惑の角を落とした。
「越前まで、まだ道は残っております」
「幼い姫様方には、さぞお疲れでございましょう。香りは心をゆるめます」
侍女は静かに小包を受け取った。
宗右衛門が続けて言う。
「長浜の町は活気があり、商いも安心してできております」
「北近江にゆかりのご嫡男が、この土地をいたく愛しておられましたゆえ」
侍女はその言葉に静かに耳を傾け、小さく頷いた。
別室に旧浅井に連なる者たちが通された。
お市の方が前に進み、勝家は半歩後ろに立つ。
この姿を見せることが、今度の北近江の統治につながるという勝家ならではの政略であった。
老いた旧臣が頭を下げた。
「よくぞ、お戻りくださいました」
「我ら北近江の者、心より喜んでおります...」
そう言って、肩を小さく揺らした。
お市の方は目を瞑ると、目尻からうっすらと光るものが落ちた。
一瞬の間を置き、お市は答えた。
「辛い思いをさせたな」
「わらわがここに戻ったことを喜んでくれて嬉しく思う」
別の旧臣が続けた。
「戦国の世の習いといえど、断腸の思いで過ごしております」
「お市様と長政公の姫君が健やかでおられることが、我らの支えでございます」
「どうか、末長くご健勝であられますよう」
お市の方は、ただ無言で大きく頷いた。
言葉を発すると、押さえ込んでいる感情が一気に吹き出してきそうだった。
夜
宿の灯が落ち着き、お市の方と3人の姫君・茶々、お初、お江は一つの部屋でくつろいでいた。
そこに、侍女が昼間に受け取った小包を運んできた。
「長浜の町衆から献上の品を預かっております」
「姫君の道中のお慰みに、とのことにございます」
14歳、13歳、10歳の幼い顔がお互いの顔を見つめ合う。
侍女が小包を広げ、3つの匂い袋と添え文を取り出した。
色糸が微かに違う。
派手ではないが、綺麗な色使い。
香りは淡く。心が安らぐ。
思わずお江が声を漏らす。
「きれい……」
お初は袋を鼻先に寄せ、小さく笑った。
「いい匂い」
茶々は何も言わず、静かに見つめている。
お市の方は、そっと添え文を開いた。
道中、御身を大切に
北近江の者、皆、姫様方のご無事とご多幸をお祈りしております
―― 竹若
「町衆からの贈り物と言ったな。代表の物に丁重にお礼を」
「...ところで、この竹若とは誰のことか?」
お市の方が侍女に訊ねた。
「羽柴筑前守様のご舎弟・秀長様の御嫡男のことと思われます」
「浅井家臣・磯野員昌殿のご息女との子で、ここ長浜でお生れになっております」
侍女は受け取った品を改めた際、目にしたその名を調べておいた。
「ほう、浅井が四翼・磯野殿に連なる者か」
お市の方は、再度文に目をやり、感慨深そうに呟いた。
侍女が続ける。
「北近江の国人や商人、民に対してよく気を配り、この地の者から慕われていたとのこと」
「幼いながら、大人顔負けの見識で、麒麟児と囁かれていたそうにございます」
お市の方目を見開き、しばらく間をおいて答えた。
「北近江の血が、しっかり受け継がれておるのだな」
「しかし、あの猿の弟の子が、麒麟児とはな」
「とんびが鷹を...いや鷹が鷲を産んだのかもしれぬな」
そう言うと、ふふふと小さく笑った。
お市の方の横で3姉妹がそわそわしている。
それに気づいたお市が、やさしく声をかけた。
「北近江の者からの贈り物」
「それぞれ受け取って大切にしなさい」
そう言われてすぐに3姉妹が手を伸ばす。
こういう時は一番年下のお江から欲しいものを手に取る。
茶々とお初が定めた決まりだ。
最後に、茶々は薄い青糸を通された匂い袋を手に取った。
淡海の湖面の色を思わせる、懐かしい色をしていた。
茶々は、袋を掌に収め、目を瞑り胸の前で祈るように握りしめた。
しばらくして、目を開き、ぽつりと呟く。
「長浜は、広く、あたたかいところでしたね」
お市の方は娘を見た。
茶々の瞳はキラキラと輝き、迷いのない眼差しであった。
戦で家を失い、父を失い、また北へ向かう。
それでもこの世を生きる。妹たちを守る。
そのような決意を表しているようだった。
「我らの無事を願ってくれる土地があることはとても幸せなことです」
お市の方は静かに言った。
その夜、三つの匂い袋は、3姉妹それぞれの枕元に置かれた。
淡く心の安らぐ香に、3人はすうと寝息を立てた。
お市の方は、寝息を立てる娘たちの寝顔をしばらく見つめた後、先ほどの文をもう一度開いた。
そして、小さく呟いた。
「長政様の北近江が、我らを守ってくれている...」
「どうか、この子たちの健やかな成長と幸せをお守りください」
翌朝、お市の一行は越前へ向けて出立した。
浅井の娘たちは、柴田の姫として越前へ旅立った。
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さて、先週、活動報告で告知させていただきましたが、改めてお知らせいたします。
これまで毎日投稿を続けてきましたが、作品の質をより高めるため、これまで以上に構成・推敲・史実確認にしっかりと時間を取っていきたいと考えています。
そのため「週6日投稿」とし、毎週金曜日を休載日とさせていただきます。
金曜日のみお休みとなりますが、創作の熱量は変わりません。(明日27日は休載いたします)




