第46話 山城の空の下
天正10年(1582年)8月 京・山崎城 竹若
山城の空は高かった。
天王山の稜線を越えて吹き下ろす風は、湿り気を帯びている。
下では淀川が鈍く光り、その流れを挟んで材木の筏がいくつも岸へ引き寄せられていた。
「引けぇい!」
怒鳴り声が響く。
丸太が軋み、石が転がる。
山崎城の普請は、昼夜を問わず続いていた。
本丸の石垣はさらに高く積み増され、曲輪は削られ、土塁は厚く盛られている。
ただの改修ではない。
明らかに、構えを作っている。
私は、櫓台の上からそれを見下ろしていた。
足元には、マルが寝転がっている。
毛並みは夏毛に変わり、耳だけが風に揺れている。
「暑いな、マル」
マルは尻尾だけを一度振った。
(北近江は柴田殿に)
(京は、まだ落ち着いているとは言えない)
(なら、ここを固めるのは当然)
父は洛中の警護に忙しく、秀吉も政のため、ほとんど京に滞在している。
しかし、その間にも、摂津と京の要衝を守るこの城が急速に整備されつつある。
羽柴の一族も、政情不安が残る洛中ではなく、ここ山崎城に居を構えた。
本能寺の変の後、
山寺への退避
長浜への帰還
そののち、再び移動して、ここ山崎へ。
激動の一ヶ月であったが、やっと落ち着いた感じがする。
私は、櫓台から下り、山崎城の一角に整えられた御殿へ向かった。
御殿では、女衆が忙しく立ち働いていた。
長浜から運ばれた荷物が解かれ、几帳が立てられ、調度品が据えられる。
ねね様は、庭に面した縁側に立ち、城下を見下ろしていた。
「長浜とは違いますね」
そう微笑む。
ここ山崎は山と川に挟まれている。
川から湿った風が吹き抜け、遠くに京の屋根が霞む。
目の前に湖が遠くまで広がる長浜の風景とは違う。
母が私に気づき、近づいてきた。
「戦の世に、同じ屋根の下に長く住むことは、贅沢なのかもしれませんね」
「やっと、落ち着けます」
そう、ポツリと呟いた。
女衆の間にも、安堵の色が広がっている。
山寺での夜は、常に物音に耳を澄ませた。
長浜では城の行く末に怯えた。
だが今は、城の石垣が日に日に高くなる様子を目の当たりにして、守られているという実感があった。
マルは庭を駆け回っている。
初めての土地に鼻を押しつけ、あちこちを確かめている。
「マルも嬉しそうですね」
ねね様が笑う。
母が続けて言う。
「長浜を出たときは、どうなることかと思いました」
「今こうして笑えることが、本当にありがたいですね」
ねね様は大きく頷いた。
そのとき、背後から本多俊政の声がした。
「若様、伊勢屋宗右衛門殿、並びにご当主の清兵衛殿がお見えにございます」
山崎に着き、少し落ち着いてきたので、伊勢屋を呼び寄せておいた。
これまでの礼を言わなければ。
「わかった。すぐに行きます」
「座敷に通しておいてください」
私はそう言って、マルを連れて座敷へ向かった。
座敷に入ると、宗右衛門と、父と思われる中年の男が座っていた。
宗右衛門は以前よりも日に焼け、たくましくなっているようだ。
私が歩み寄る前に、先にマルが走り、宗右衛門の匂いを嗅ぐ。
宗右衛門は苦笑しながら頭を撫でた。
「相変わらず賢い犬でございますな」
「宗右衛門のことが好きなんでしょう」
私がそう言うと、宗右衛門はわずかに笑った。
私が上座に座ると、2人は深く頭を下げた。
中年の男が話す。
「伊勢屋清兵衛と申します。倅が長浜でお世話になっております」
「羽柴秀長が嫡男、竹若です」
「遠路、お越しいただき恐縮です」
「我らの方こそ、宗右衛門殿、そして伊勢屋の方々には大変お世話になりました」
私はそう言って、深く頭を下げた。
「本能寺の折、命を賭して走ってくれたこと、礼を言います」
「混乱の中で情報を集め、長浜へと駆けてくれた」
清兵衛と宗右衛門が慌てて身を低くする。
清兵衛が答える。
「もったいないお言葉」
「羽柴様とは昔から縁がございます」
「信長公の御代、羽柴様が奉行として京の政務に関わられて以来、我らは羽柴様を覚えております」
私は言葉を続けた。
「父上が動けたのは、そなたらの報せがあったからです」
「遅れていれば、家族も、城も、どうなっていたかわかりません。感謝しています」
「若様のご指示があったからこそでございます」
「異変があれば、即刻知らせよ、と」
「お役に立てたのであれば、これ以上の喜びはございません」
清兵衛がそう言って、2人は再び深く頭を下げた。
「伯父・羽柴筑前守、父・秀長も、伊勢屋さんにたいそう感謝していました」
私がそう言って笑いかけた。
お礼の話はここまでだ。
次からは、これからの利の話になる。
私は話を変えて、切り出した。
「木綿の足袋、火薬袋はいかがですか」
宗右衛門が答える。
「羽柴様からの御用、ありがたく。順調に生産が伸びております」
清兵衛も続ける。
「城普請と軍備で、大きな商いもいただいております」
私はにこやかに笑った。
「本能寺の折の働きへの褒美であると、内々に聞いています」
「よかったですね」
そして、居住まいを正し、声を強めて言った。
「これまで以上に、繋がりを太くしたいと思います」
「伊勢屋さんはどうですか?」
一瞬の間をおき、清兵衛ははっきりと答えた。
「我らも同じ思いにございます」
そして、再び頭を下げた。
「これからは、京、堺の様子を教えてくれませんか」
私がそう言うと、清兵衛が頭をあげ、言葉を選びながら答えた。
「京はまだ揺れております」
「表向きは静かでも、水面下では様々な動きが」
「堺では今井宗久殿、京では千宗易殿(のちの利休)が中心に活発に動いております」
宗右衛門がさらに続ける。
「宗久殿は、兵糧と火薬、武具の確保に忙しくしておられます」
「宗易殿は、朝廷と諸大名の動きを読んでおるようです」
「彼らは、羽柴をどう見ていると思う?」
私は少し突っ込んだ質問を投げた。
清兵衛が少し考えてから言った。
「動く御方との評判でございます」
「信長公がお亡くなりになったとき、止まった大名が多うございます」
「しかし羽柴様は、止まらなかった」
「商人は、止まらぬ者を好みます」
私は石垣を見上げた。
確かに、止まってはいない。
戦い、和睦し、清洲で決め、今は城を整備している。
マルが私の膝に顎を乗せてきた。
背中を優しく撫でながら、質問を続ける。
「堺はどう動くと思いますか?」
清兵衛は即答した。
「堺は、勝つ方につきます」
「正直なことですね」
そう言って私は小さく笑った。
宗右衛門も笑う。
「生粋の商人でございますゆえ」
そう言って、この場の3人が小さな声で笑っていると、外から普請の足場が崩れる音が鳴り響いた。
大工たちの怒鳴り声も響く。
それに驚いたマルが吠えた。
私は、マルを落ち着かせるため頭を撫で、外を眺めながら考えた。
(羽柴の勝ちはまだ確定していない)
(だからこそ、ここからが羽柴政権にとっての一つの山場だ)
(政権基盤の構築に向けて、私という布石をどう打っていくか...)
城が急速に大きくなる、この普請の音を聞いていると、胸の奥が静かに熱を帯びる。
時の流れが早い。
一刻一刻が、歴史に刻まれていっている感覚。
羽柴の家を守るため、一時も無駄にせず動いていかねばならい。
そういう焦燥感が胸を駆け巡った。
遠目に見る山城の空は、どこまでも青かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
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