第44話 約定の先
天正10年(1582年)7月 近江・長浜城 羽柴秀長
羽柴秀長
秀長一行が長浜城に着いたころには、夜になっていた。
城門は静かに開かれ、馬を下りた秀長は、ほとんど声を発することなく城内へ入った。
清洲へ向かう秀吉本隊の喧騒とは、別の時間が流れている。
城に入ると、妻と竹若が、出迎えにきていた。
「……お帰りなさいませ」
妻の控えめな声。
「うむ。役目ができたため急ぎ戻ってきた」
先日、家族の再会を果たし、語り合ったばかりだ。
この城に戻った理由は、安らぐためではない。
「すぐに、人を呼ぶ」
秀長はそう告げると、さらに表情を引き締めた。
磯野員昌と小堀正次が呼び出された。
二人は、北近江という土地の“裏”を知る男たちだった。
「清洲での会議は、まだ始まってもいないが」
秀長は、開口一番にそう言った。
「道中、方針を練ってきた」
「こういう政略は、兄の得意中の得意」
「おそらく、その通りに動くはずだ」
一拍置き、続ける
「織田家の次期当主は、三法師様」
磯野が静かに頷く。
「その名が出れば、それ以外は通りませんな」
「そして、信孝様と信雄様の両名が後見人」
秀長がそう言うと、小堀、磯野の目が一瞬見開いた。
後見人はどちらか一方という予想を裏切られたようだ。
「北近江は、柴田殿へ」
「我らは山城、河内を取り、(羽柴)秀勝殿には丹波を」
それを聞いた磯野が目を閉じて深く頷き、少し間をおいて答えた。
「美濃と尾張は織田家の本領。一門以外は取れまい」
「そうすると北近江は、柴田殿の北陸と美濃に挟まれる」
「紛争地になるくらいなら、はじめから渡した方がよいと…..」
小堀が引き取って続ける。
「本当によろしいのですか?」
「羽柴家にとって北近江・長浜は本貫地。殿にとっても大切な土地と推察いたしますが…」
秀長は静かに答えた。
「勝ち過ぎは良くはない。羽柴は大きく譲歩したという印象を与えることが大事よ」
「その代わり、我らは京を抑える」
「信孝様や信雄様ならまだしも、柴田殿も京の価値を理解されていない…..」
「我らの陣営には北近江の出身が多い」
「すまぬが、そなたらからもくれぐれも説明をお願いしたい」
秀長がそう言って小さく頭を下げた。
磯野と小堀は「はっ」と短く返答をし、額を畳につけた。
一拍おき、秀長が続ける。
「北近江は、一旦、柴田殿に譲る」
「しかし、この地は、柴田殿のものにはしない」
磯野が、わずかに笑った。
「浅井の旧臣は、勝家殿に恩はございません」
秀長は、地図を広げた。
湖北三郡。長浜、木之本、余呉。
街道、港、寺社、関所。
「ここ、ここ、そして――ここ」
要点だけを指す。
「人を置く。兵ではない。地元と話ができる者だ」
小堀が、即座に理解した。
「なるほど。いずれ取り戻す際の工作ですな」
「……柴田殿が入る前に、空気を決めてしまうと」
秀長が頷く。
「藤堂と羽田を使う」
「あれらは、人を見る目を持っている」
藤堂高虎。
のちに築城で有名になるが、在地掌握や外交にも長けた若者。
「藤堂を余呉、木之本に回す。在地の国人衆に根回しに向かわせる」
「羽田は、港と商人だ」
「長浜の湊。琵琶湖の水運を押さえねば、この地は生きぬ」
「正親なら商人とも話が通じる。小堀殿はご助力をお願いします」
「この地をいかに羽柴が大切にしてきたかを、皆に分からせてほしい」
磯野が、ゆっくりと口を開いた。
「柴田殿が、本気で動いた場合は?」
秀長は、迷わなかった。
「すぐには動けまい」
「当主を定め、後見人を決めた矢先に、その約定を破棄することはできない」
「いずれは、その約定も終わるでしょうが...」
小堀が、静かに問う。
「その時は、戦になるのでしょうか」
「なる」
「しかし、この地ではない」
秀長は、はっきりと答えた
「長浜は“受ける場所”ではない。押し返すための拠点とする」
その言葉の意味を、二人は理解していた。
ここで戦えば、この地は荒れる。
「では、さっそく動きます」
小堀がそう言うと、二人は深く一礼し、早足で部屋を出ていった。
十日あまりが経った。
長浜城の朝は、静かだった。
琵琶湖からの風が、城下を抜け、夏の気配を帯びた湿りを運んでくる。
戦の準備をしている城とは思えぬほど、人々は日常を続けていた。
その静けさを破ったのは、城門に響いた馬蹄の音だった。
「清洲より羽柴秀長様へ、至急の使者が到着」
その言葉が、城の奥へと吸い込まれていった。
その時、秀長は奥の間で帳面に目を通していた。
その傍らには、小堀、羽田、磯野がいる。
さらに、少し離れたところに、竹若がちょこんと座っていた。
使者は膝をつき、一礼すると、息を整えた。
「清洲の会議、無事、終結いたしました」
その一言で、空気が変わる。
秀長は、静かに言った。
「申せ」
使者は、まるで芝居の台詞を語るかのように、
一つ一つ、区切って話し始めた。
「まず、織田家の継承につきまして」
「信忠様の御子、三法師様が、当主と定められました」
秀長は、何も言わず頷いた。
竹若も、小さく息を吐く。
使者は続ける。
「後見人には、信孝様、信雄様ご両名が立たれることに」
秀長の眉が、わずかに動く。
「両名、か」
「はい」
使者が勢いよく答える。
その言葉を聞いた瞬間、竹若の目がかすかに光った。
「……互いに牽制し合って、自由には動けない」
使者が、一瞬、言葉に詰まる。
「は…?」
秀長が、静かに促す。
「続けよ」
「次に、領地の件でございます」
「長浜城を含む北近江は、柴田殿の陣営へ」
「信孝様が美濃を、信雄様が尾張を得られました」
「羽柴様には、山城と河内をということでございます」
全く予定どおり。
ここで、竹若が口を挟んだ。
「ちなみに長浜城は、どなたに?」
使者は即答する。
「柴田勝豊様との噂でございました」
竹若は、しばらく黙り込んだ。
「確か、勝家様の甥で、ご養子に入られた方ですね」
磯野が竹若の言葉に続けて、神妙な口調で言った。
「長浜城は柴田殿の陣営にとっては、中央への橋頭堡」
「信頼のおける親族を置くというのはわかるが...」
「確か、不仲が囁かれていたはず」
小堀が、静かに補足する。
「盾ともとれます」
「捨て駒とは言わないまでも、危ない役目だ」
秀長は小さく頷いた。その口元はわずかに笑っていた。
「信頼されているとも見れるが…本人がどう捉えるかだな」
そう言って、磯野と小堀に顔を向けた。
3人は無言で見つめ合い、静かに頷いた。
使者は、会話が途切れたのを見計らって、簡単に締め括った。
「以上でございます」
秀長は少し首を傾げて、使者に問うた。
「お市の方様の話は出なかったか?」
「会議の場では出ておりません」
秀長は、目を閉じてつぶやいた。
「……そうか」
少しの沈黙の後、秀長が使者に声をかけた。
「使者の役目、ご苦労であった」
「疲れたであろう、身体を休めるが良い」
使者は深く頭を下げ、部屋を下がっていった。
しばらくして、竹若が口を開いた。
「…皆様、ご納得はされているのでしょうか」
秀長は、苦く笑った。
「納得せざるを得えまい」
「弔い合戦の最大の功労者が説く理。それを支持する家老たち」
「誰も異論は挟むことはできない」
竹若は、畳に描かれた地図を見つめる。
「三法師様がご当主。信孝様と信雄様が美濃と尾張、そして後見」
「何もしていない柴田様が北近江」
「伯父上は、譲れるところは、きっちり譲った」
「しかし、取れるものは可能な限り取った」
「……なるほど。流石は伯父上」
秀長が、竹若に質問をする。
「どこが流石と思う?」
「争いを、”今は”、起こさない塩梅かと思います」
竹若は、静かに続けた。
「誰も、正面から刃を抜けない」
秀長は、ゆっくりと座り直し、我が子をじっと見つめた
「よくわかっておる。その通りだ」
「信孝殿、信雄殿のいずれが当主になっても、織田家は割れる」
「割れないようにするには、他の人物が御当主になる以外はない」
「三法師様であれば、御両人以外は納得する。いや納得するしかない」
竹若は、軽く頷いて続ける。
「……しかし、誰も、三法師様のために戦わない」
秀長は、静かに言った。
「よく見ている」
そして、場にいる全員の顔を見渡しながらゆっくりと話した。
「北近江を、一旦、柴田殿に渡す」
「清洲の約定は、しばらくは守られるであろう」
「これは、終わらせるための約定ではない、始まるまでの時間稼ぎだ」
秀長は言葉に力をこめて続けた。
「準備を始めるぞ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
ブックマーク・評価・感想をいただけますと、
今後の執筆の大きな励みになります。




