間話 安土城炎上
天正10年(1582年)6月上旬 伊勢〜安土 織田信雄
伊勢・桑名
湿った海風が陣幕を鳴らしていた。
織田信雄は、急ぎの書状を受け取ったまま、しばらく動かなかった。
「京で、父上が討ち死にしただと」
「逆賊、明智め!」
そう言ってゆっくりと息を吐いた後、つぶやいた。
「…安土へ向かう」
父の城、天下の象徴を、嫡流である自分が押さえる。
理屈ではなく、本能に近い決断だった。
明智の動きは読めないが、安土を押さえれば流れは決まる。
信雄はそう自分に言い聞かせた。
伊勢の兵をまとめ、近江へ進む。
しかし、道中は混乱していた。
やっと攻め取ったばかりの伊賀が再び乱れている。
慎重に移動しているうちに時間だけが経っていく。
進軍の途中、報せが届いた。
「羽柴秀吉、備中から引き返し摂津に向かっている模様」
信雄の眉がひそむ。
「秀吉も動くか」
あの男は、父の下で力を蓄えていた。
戦に強く、機を見るに敏い。
さらに数日後、再び報せが入った。
「山崎にて、逆賊明智日向守、敗死」
信雄はしばらく無言だった。
「……そうか」
悔しさが、胸に湧いた。
明智を討つのは嫡流である自分であるべきだ。
それなのに、父の仇を討つ名誉を秀吉に奪われた。
だが同時に、別の感情が胸を満たす。
ー 戦わずに済んだ。
明智と正面から刃を交える覚悟は、正直なかった。
敗れれば、嫡流はそこで終わる。
その不安が、どこかにあった。
秀吉が明智を討ち、自ら戦う必要がなくなったことに安堵を覚えた。
そして、その弔い合戦に信孝が参加しているという事実。
自分は出遅れた。
そのことに、とてつもない焦りを感じる。
「……急げ」
進軍の歩みが速まる。
安土に入ったとき、城はまだ威容を保っていた。
巨大な天主。
金箔が、初夏の日を反射している。
あまりにも父の城だ。
父の権威。
父の夢。
これは、自分の城ではない。
この城は、自分には偉大すぎる....
城を見上げる信雄の胸が締め付けられる。
城は父の象徴であって、自分の象徴ではない。
焦燥が理を押し流す。
そのとき、家臣が進言した。
「すぐに、ここを押さえねばなりません」
「信孝様が動けば、この城を拠点になさるでしょう」
「秀吉も、いずれここを狙うはずです」
信雄の胸がざわつく。
この城に信孝が入れば、三法師を掲げ、正統性を固める。
そうなれば、自分の立つ場所がなくなる。
「わしは嫡流だ!」
信雄は荒く声を上げた。
夜。
信雄は天主の下に立った。
闇の中で、楼閣は黒くそびえる。
「父上の城は、父上とともに終わらねばならん」
誰に向けた言葉でもなかった。
家臣が躊躇する。
「殿、本当に―」
信雄は振り返らず、短く命じた
「燃やせ」
やがて、火が上がる。
最初は小さく、やがて一気に燃え広がる。
金箔が赤く染まり、夜空が明るくなる。
天主が炎に包まれる。
信雄はそれを見つめていた。
悔しさ
安堵
焦り
劣等感
すべてが混ざり合う。
天下の城、信長の夢の城は崩れ落ちた。
嫡流を名乗る男は、自ら寄るべき城を焼いた。
それが軽挙か。
それとも、父への歪んだ決別かは、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、その炎が織田の時代の終わりを告げ、新しい秩序の影を都へと伸ばしたということだった。
安土城炎上には、失火や落雷、強盗による放火など様々な説があります。
ここでは伝統的な説として、信雄による放火を取っています。
信雄の焦燥が、今後の天下の動きにも影響してくる様子を表現してみました。
第2章「動き出す歯車」は、今話で完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本能寺の変から山崎、そして家族との再会まで、歴史が奔流のように動く中で、竹若はその只中に立つことになりました。
次章、第3章は「歴史の中へ」です。
竹若がいよいよ、歴史を“見る側”ではなく、“動かす側”へ。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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