第42話 家族の団欒
天正10年(1582年)6月20日 近江・鳥居本 竹若
鳥居本の野営地は、夜になっても賑わっていた。
戦が終わったばかりの軍勢は、昼の疲れを忘れたかのように、焚き火を囲み、酒を回し、勝利の余韻に浸っている。
長浜城が守った食糧と、金銀を使い商人に調達させた酒と肴が疲れた兵に供された。
山崎での大きな戦い以降、京や南近江と明智支配地を行軍してきた兵達にとって、ここ北近江での休息と宴は、久しぶりに心身から休め、楽しめる時間になっていた。
甲冑を脱いだ兵たちの笑い声は大きく、時折、誰かが調子外れの歌を歌っては、周囲から野次が飛ぶ。
その喧騒から少し離れた場所に、灯が集まる一画があった。
粗末な幕舎ではあるが、入口の布は整えられ、内側には几帳が立てられている。
羽柴の「家」がそこにあった。
ねね様が膳を並べていた。
干飯を戻したものに、刻んだ塩魚、薄いが味噌を溶いた汁。
戦場の膳としては十分すぎるほどのものだ。
「ほら、殿」
「そこでは食べにくいでしょう」
秀吉は鎧を脱ぎ、下着姿のまま胡坐をかいている。
「いい、いい」
「ここはどこに座っても我が家だ」
秀吉は上機嫌にそう言いながらも、ねね様に言われるまま、少し中央へ寄る。
その様子に、皆が小さく笑った。
秀長と母は並んで座っている。
母は、秀長の顔を何度も見てから、ようやく落ち着いたように息を吐いた。
「…本当に、生きて戻られたのですね」
「はい。こうして、ここにおります」
秀長は、穏やかに答えた。
それだけで、母の目が潤んだ。
そして、幕舎の奥には、秀吉の母・なかが座していた。
普段はねね様が面倒を見ており、長浜を脱出した際も、羽柴家族一行として大吉寺に身を寄せていた。
年は重ねているが、背はまっすぐで、眼光は衰えていない。
息子の姿をじっと眺め、ふん、と鼻を鳴らす。
「藤吉郎。お前は、相変わらず小汚い格好をしよって」
秀吉が苦笑する。
「戦をしてきたんだ。仕方なかろう」
「戦だろうが何だろうが、そんな格好でこの場に座るものじゃない」
「おねねもお初もおるんじゃ、もそっと綺麗にできんのか」
ハリのある声で息子に小言を言う。
どこにでもある母と息子の会話に、周囲は笑いをこぼした。
そして、なかは秀吉と秀長の顔をしばらくじっと見つた後、
「にしても…よう生きて戻ったなぁ」
「小一郎も死なんとよう帰ってきてくれた」
そう言って、涙を流し始めた。
天下に指の先が届き始めた秀吉もその右腕秀長も、母にとってはできの悪い息子にすぎない。
「おっかあ。心配かけたな」
「…無事に帰ってきました」
秀吉と秀長は声を振るわせて、短く答えた。
兄弟の目には涙が浮かんでいた。
沈んだ場を明るくしようと、ねね様がいつもの口調で言う。
「お義母様、藤吉郎様はこれでも随分とましになったのですよ」
「私たちは、こうして生きてここに戻ってきてくれた、それだけで十分です」
「そうかい。そうかい」
「でも、甘やかしたらあかんよ、おねね」
なかのその一言に、場に笑いが起こった。
秀吉は、照れたように頭を掻く。
私は、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
膳は用意されているが、まだ箸を取っていない。
この輪の中にいることが、不思議で、そして胸が温かかった。
なかが目を向ける。
「おや、竹若は食べぬのか」
私は姿勢を正して言う。
「皆が揃っているのを見て…胸がいっぱいで」
ねね様が笑って言った。
「何を改まっているの」
「ほら、早く食べなさい」
そう言って、汁椀を竹若の前に寄せる。
箸を取り、汁を一口啜った。温かい。
それだけで、胸の奥がほどける。
しばらくの団欒の後、秀吉が言った。
「長浜は、よく持ちこたえたな」
その一言をきっかけに、磯野の働き、家臣たちの采配。
話は自然と長浜のことになる。
「阿閉の兵が入ったと聞いた時は、正直、肝が冷えました」
ねね様が言う。
「大殿の凶報が届いてすぐ、長浜から出ることを決めたのが功を奏しました」
秀長が素直に感想を述べる。
「確かに、判断が早かった」
「あそこで無理に籠城するのは悪手。逃げるという選択は正しかった」
「しかも、城の物資を隠すという機転も効かすとはな」
秀吉は、汁椀に手をつけたまま、口を開く。
「そうじゃそうじゃ、竹若の機転で、我らは今こんなにうまい飯を食えとる」
「兵どももあんなに喜んでおるわ。将の最も大切なことは兵の腹を満たすことよ。竹若はよくわかっておる」
秀長が続けて言う。
「我らは本当に竹若に助けられた」
「この飯もそうだが、長浜から安否を報せる文に心から安堵したものだ」
あまりにも褒められすぎて、私は恥ずかしくなり、小さな声で答えた。
「よく覚えておりません」
「ただ、家族を守ろう、父と伯父上の役に立とうと必死でしたから」
秀吉が大きな声で笑った。少し汁が飛ぶ。
「必死で我らを、家族を守ったか!ようやった!」
「それに、あの言葉。成すべきことを成せ」
「値千金よ!」
「落ち着いたらなんでも褒美をくれてやる。楽しみにしておけ」
私はただ「はい」とだけ答えて、頭を下げた。
私をじっと見つめていたなかが、小さな声で言う。
「本当に竹若が、わしらを励ましてくれたんよ」
「あと、マルもな」
秀吉が首を傾げて答えた。
「そのマルというのは、竹若が飼っているという犬のことか?」
「戦の最中に犬とはな」
竹若は首を振る。
「マルは…家族です。父から委ねられた友でもあります」
「今は伊勢屋に預けていますが」
ねねが声を上げて笑った。
「そうそう」
「マルがいなかったら、私達はもっと暗い日々を過ごしていましたよ」
それを聞いた秀吉が豪快に笑う。
「面白い。わしの家は、人も犬も、皆よう働くようだ」
なかは、うんうんと頷いた。
「それでいい」
「家というのは、そういうものだ」
母が言った。
「本当に…竹若に支えられました」
「今こうして笑っていられるのも、竹若が励ましてくれたからですよ」
一瞬、間が空いた。
秀吉はこの場に集まる全員を見渡し、静かに言葉を発した。
「家族が一人も欠けず、再会できたことは何よりだ」
「……これから、いろいろ動く」
「また、皆に苦労をかけるかもしれん。すまん」
一瞬、場の空気が引き締まる。
ねね様が家族を代表して言う。
「藤吉郎様。この戦の世、それは皆、覚悟の上です」
「それぞれが、それぞれの場所で戦っているのです」
「ご心配には及びません」
「そうか…そうだな」
秀吉はすぐに笑顔に戻った。
「今は、難しい話はやめよう」
なかが言う。
「そうだ。家族団欒で無粋な真似をするもんじゃない」
その言葉に、皆が笑った。
灯の下で、笑い声が重なる。
私は思った。
今夜、この場所で共に過ごした家族の時間を覚えていよう。
そして、秀吉にも父にとっても、忘れえない時間として、しっかりと心に留めていてほしいと切に願った。
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