第39話 虚実 ー 摂津へ
天正10年(1582年)6月9日 播磨〜摂津 羽柴秀長
6月8日 夜
姫路城の夜は濃かった。
城下に火は少なく、空は広い。
風が、播磨灘の湿り気を運び、障子の紙をわずかに震わせる。
近習たちも下り、座敷に残ったのは秀吉と秀長だけとなった。
秀長は静かに言葉を発した。
「本当に、我らで明智を討てましょうか」
秀吉は確かな声で答えた。
「討つ。いや、“討たねばならぬ”。明智が京を固める前に動く」
「ここは一世一代の大勝負のときよ」
それから、ふっと言葉が軽くなる。
「それにな、小一郎」
「天が味方しておる」
「これほど早く姫路まで戻ってこられたのが、その証拠よ」
秀長は頷いた。
兄の勝負感が人一倍鋭いことを、誰よりも知っている。
そして、秀吉は小さく笑った。
「それに、あやつから発破をかけられておるしな」
兄弟はお互いの顔を見つめ、肩を揺らして笑い合った。
6月9日 朝
城門が開くより先に、城下を行く荷駄隊が動き、馬のいななきが空気を裂く。
炊き出しの煙が上っている。
腹を満たしきらずとも歩けるよう、塩気の強い握り飯が配られる。
秀長は、奉行衆の帳面をめくっていた。
浅野長政、石田三成、増田長盛。
彼らの役目は多い。
先へ走り、道を整え、宿を割り、井戸を押さえ、米と塩を集め、馬を替える。
戦の準備ではなく、最速で摂津に着くための行軍管理だ。
「明日までに明石へ、尼崎まで3日で駆けます」
三成が言った。
口調は淡々としている。感情を捨てなければ、2万の人間は動かせない。
「姫路で一日休ませたのは、正解でございました」
「足を潰しては、結局遅れます」
秀長が短く頷く。
「……次の問題は、摂津だ。どれだけ味方を確保できるか」
夕方
秀吉本隊が明石に到着し、休息のために張った陣幕の中。
秀吉は、摂津の諸将を調略するため、筆を走らせていた。
向かいに秀長と黒田官兵衛が、少し離れて堀秀政が座っている。
戦は、戦場での力のぶつかりの前に、どれだけ味方を増やすか、いや、敵の数を減らすかで決まる。
今、摂津は揺れている。早く抑えた方が勝つ。
ならば、どちらに大義があるか。それを示した側が主導権を握る。
秀吉が口を開く。
「中川も、池田も、高山も――同じじゃ」
堀秀政が、眉をわずかに上げる。
「それは、随分と荒い手でございますな」
官兵衛は、何も言わない。
ただ、秀吉の顔を見ている。
「荒くてよい」
秀吉は、笑った。
「小細工は不要だ」
「訴えることは一つ。書き分けることなどない」
秀長は、理解した。
これは、説得ではない。選別だ。
「書き分けぬことで、読む者の腹が見える」
官兵衛が、低く言った。
「己に都合よく解釈できる者だけが、動きます」
秀吉は、頷いた。
「迷う者は、動かぬ。動かぬ者は、置いていく」
秀吉が書いた文は、短かった。
『大殿並びに信忠様の凶報は届いておらず。
すなわち、明智の謀反は失敗したことは明らかである。
この度の企ては、逆賊の仕業以外の何物でもない。
これに与するは、謀反に連なるものである』
『羽柴は、逆賊の討伐のため、ただちに上洛する。
お味方くださるかどうかは、御身の覚悟にてご判断いただきたい」
書き終え、秀吉は筆を置いた。
官兵衛は、すぐには頷かなかった。
「……“無事”とは、書かれませぬな」
「書かぬわ」
秀吉は口元に笑を浮かべて答えた。
「確証のないことを、断定はせぬ」
「しかし…」
官兵衛が、続きを促す。
「凶報は届かずと」
秀吉は、歯を見せて笑った。
「人はな、信じたいことを、信じるのだ」
「何を信じるかは、向こうの勝手じゃ」
そう言って、秀吉は肩をすくめた。
「だが一つだけ、逃げ道は塞いだ」
秀政が、文の下段を指す。
「“与するは謀反に連なる”」
「きつい言い方でございますな」
「きつくせねばならぬ」
秀吉の声が、低くなった。
「ここを曖昧にすれば、明智に付いた者が“様子見だった”と言い逃れる」
「逃げ道は、先に塞ぐ」
官兵衛が、静かに言った。
「……これで、明智に付く者は“自覚的な逆賊”になります」
「そうじゃ」
秀吉は、文を三通に写させるよう命じた。
「中川も、池田も、高山も」
「誰が、どのように読むか、楽しみよ」
使者が出ていく準備をする間。
秀長が、ふと口を開いた。
「兄者」
「何じゃ」
「……もし、誰も動かねば?」
秀吉は、迷わなかった。
「それでも行く、先に動いた者が主導権を握る」
「動かぬ者は、後塵を拝するだけよ」
「ここからは試練」
「誰が、天下に座る覚悟を持つかのな」
6月11日 秀吉本隊は摂津・尼崎に入った。
街は混乱していた。
京の騒ぎが摂津に届き、誰もが身の振り方に悩み、動けずにいた。
その尼崎で、秀吉は大声で叫んだ。
「大殿はご無事じゃ! 信忠様もご無事!」
「明智の謀反は、失敗に終わった!」
家臣達の顔が、一瞬止まる。
信忠様は、すでに… 大殿もおそらく…
だが、秀吉は言い切った。
真実かどうかは、今は関係がない。
必要なのは、兵が迷わぬこと。味方が増えること。
秀吉は、真実を語っているのではない。
勝つための“現実”を作っている。
「逆賊を討てば、褒美は思うままぞ! わしに従え!!」
その日の夕刻。
書状をばら撒いた諸将から、使者が駆けつけだした。
最初に現れたのは、中川清秀の使者だった。
「羽柴殿の書状、確かに拝読いたしました。
明智に与すること、すなわち謀反に連なる。
我が主、清秀、これに異存なし」
「摂津から京にかけての道は、知り尽くしております。
先駆けをお任せいただきたく」
秀吉は、ただ頷いた。
「よい判断じゃ」
間を置かず、池田恒興の使者が訪れた。
「羽柴殿の文、ごもっとも」
「明智は、主を刃を向けた逆臣。それだけでつく理由はない」
「我らは織田の家臣。織田の名の下に戦うなら異論はない」
秀吉は、一言を添えた。
「……織田の名は、まだ死んでおらぬ」
それは確認でも、保証でもない。
だが、池田恒興にとっては十分なはずだ。
しばらく間をおき、高山右近の使者が入ってきた。
「主、高山の言葉を預かってまいりました」
「主殺しは、天にも人にも背く」
「羽柴殿が逆賊討伐を掲げられるなら、お味方するまで」
秀吉は、短く言った。
「礼を言う」
しかし、集まらなかった者たちもいる。
夜。
別の陣幕で、秀長は奉行衆の報告を聞いていた。
「……丹羽殿の陣でございますが」
浅野長政が、言いづらそうに続ける。
「信孝様を四国攻めの総大将として、丹羽殿は与力として大坂に在陣しておられました」
「しかし、本能寺の噂を聞いた兵が動揺し、次々に離散」
「指揮系統が保てず、軍として霧散したとのこと」
秀長は、長政に静かに聞いた。
「残った兵は?」
「多く見積もっても、数千」
「……それで、丹羽殿は動くか」
「動けませぬ」
浅野は首を振った。
「丹羽様は、信孝様の判断を待っておられるようです」
「しかし信孝様も、混乱の中、決断を下せずにいる様子」
秀長は、理解していた。
丹羽殿は、誤らぬ男だ。
しかし、最初に踏み出す男ではない。
秀吉のもとに、その報せが伝えられたのは、夜半だった。
官兵衛と秀政も同席している。
秀吉は、鼻で笑った。
「……そうか。霧散したか」
「丹羽殿らしい」
官兵衛が言う。
「慎重であるがゆえに、この局面では身動きが取れぬ」
秀政が、静かに補足する。
「信孝様は、名分としては立てねばなりませんが……軍を率いる力はございません」
秀吉は、腕を組んだ。
「それでよい。信孝様には、形式上の総大将になっていただく」
「名は必要じゃ。この戦いは織田の血という大義が必要」
「だが、兵を動かし、戦を決めるのは――」
官兵衛が、続けた。
「殿でございますな」
「そうじゃ」
秀吉は、はっきり言った。
「天下は、名では取れぬ。動いた者が、取る」
秀長が続けて言う。
「丹羽殿に再度、書状を出しましょう」
「池田殿、中川殿、高山殿が味方につき、逆賊討伐の算段が整った」
「信孝様に逆賊明智討伐の総大将をお願いしたい、と」
秀吉が声を出して笑う。
「それで良い。据え膳を用意されては、流石に動くであろう」
秀長が書状を書くため秀吉の陣を出ると、摂津の空に星空が広がっていた。
京の方角をしばらく眺め、ぎゅっとこぶしに力を込めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
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