第29話 茶々
天正9年(1581年)9月 近江・長浜城 竹若
帳面を閉じても、考えは続いたままだ。
まだ輪郭が定まらない、これからの豊臣という政権のかたち。
私は几帳の外を見つめたまま、指先で机を叩いていた。
次に打てる手を考えながら物思いにふけっていると、思考の沼から呼び戻されるように、母の声が耳朶に響いた。
「竹若殿」
「少し、お茶にいたしましょう」
気づけば、喉が渇き、小腹が空いている。
「……そうですね」
奥の小座敷へ移動すると、ねね様も来ていた。
湯気の立つ茶碗と、小さな菓子皿。
畳の上には、穏やかな空気が流れている。
「また難しい顔をして」
「眉間にしわが寄ると、秀吉様にそっくりになりますよ」
ねね様が笑う。
「それは困ります」
「でしょう?」
ねね様が続けると、母もくすりと笑った。
侍女たちが控え、茶を注ぐ。
しばらく、他愛のない話で盛り上がる。
城下の菓子屋が変わったことや、井戸水の味が少し違うこと。
そして、自然と話題は外のことへ移った。
「そういえば……」
ねね様が声を落とす。
「岐阜のお市様、ご健勝だそうです」
「ご仏前の供えは欠かさず、三人の姫君もご一緒に手を合わせておられるとか」
母が頷く。
私は、湯呑みを持つ手を止めずに耳を傾ける。
お市の方の姫君 ー 浅井三姉妹。
茶々、初、江。
「長女の茶々様は……たいそう美しいとか」
侍女の一人が、少し声を弾ませた。
「……実は」
ねね様が、少し声を潜める。
「一度だけ、遠目にお見かけしたことがあるのです。茶々様を」
「岐阜で」
母が目を上げる。
「まあ」
ねね様は、嬉しそうな声で続ける。
「ほんの一瞬ですけど」
「妹君の手を引いて、転びそうになった下女の子を支えて」
「そのまま一緒に笑っておられました」
「姫様らしくない、とても可愛らしい姫君でした」
私は、思わず顔を上げた。
(可愛らしい?)
ねね様があの茶々のことを可愛らしいと……
その違和感に唖然としていると、ねね様は何やら勘違いしたらしく、
「あれ?竹若殿も男の子ですね。可愛い姫君にご関心が?」
と冗談めかして笑った。
母も、困ったように微笑んだ。
ねね様は、笑っていた顔からすっと真顔になり私を見つめた。
じっと。何かを量るように。
それから、ぽつりと言う。
「……竹若殿くらいのお歳なら」
「ちょうど、よろしいのかもしれませんね」
「え?」
私が間の抜けた声を出すと、ねね様は慌てて手を振った。
「いえ。なんでもありません」
ねね様は笑いながらそう言うと、市井の出来事へと話題を変えた。
お茶の時間は自然とお開きになり、私は再び自室の机に戻った。
妹の手を引き、下女と一緒にしゃがみ込み、笑う13歳の姫。
――茶々
――後の淀君
私は、再び帳面を開いた。
だが、その余白には、いつの間にか、一人の少女の影が差し込んでいた。
この春、今後の方針を定めたあのとき、最後まで決めきれなかった問題がある。
そう、秀吉の側室、茶々だ。
まだ会ったことはない。
ねね様の話では、美しく、明るく、優しい娘だそうだ。
私は顔も性格も知らない。
知っているのは、史実だけだ。
浅井長政の娘。
信長の姪。
やがて秀吉の側室となって、豊臣政権の「母」となり、そして、
――すべてを壊す。
今は、まだ13歳。
北ノ庄城は、まだ落ちていない。
お市の方も生きている。
茶々も、まだ戦の女ではない。
ただの、敗者の家の娘だ。
そもそも、茶々の運命は――清洲から始まる。
本能寺の変の後、織田家の跡目を決める清洲会議。
しかし、実態は、領地と権力の分配だ。
柴田勝家は、織田家筆頭家老。
北陸軍団を率いる最強の武力であり、秀吉にとって最大の障害だ。
秀吉は清洲会議において、信長の弔い合戦の功労者として、自らが推す信忠の嫡男・三法師を織田家の後継者に据えることに成功。
実質的に織田家の筆頭家老の立場になる。領地も大幅な加増となった。
当然、勝家は納得せず、不満を溜める。
秀吉は、勝家を抑え、来るべき戦さに備えるための時間を稼ぐ必要があった。
そこで、勝家が納得する”得物”を用意する。
領地でも、官位でもない。
――お市の方だ。
信長の妹。
浅井長政の正室。
織田の血統、その象徴。
勝家にとっては、正統性を手に入れる結婚。
秀吉にとっては、戦を遅らせるための代価。
情ではない。
慰めでもない。
政治だ。
一人の女性の人生と引き換えに、数万の兵の衝突を先延ばしにする。
残酷だが、合理的だ。
本当なら――
止めたい。
浅井の娘を、再び戦の道具にすることを。
母を失い、国を失い、なお政の盤上に乗せられる運命を。
だが、止めればどうなる。
おそらく、秀吉の一人勝ちに勝家は暴発する。
織田家は再び戦乱に沈む。
秀吉は討たれ、秀長も巻き込まれ、豊臣政権そのものが生まれない。
その可能性は十分ある。
お市の方一人を守るために、多くの味方を、そして家族を死なせる。
それはただの感傷だ。
だから、
お市の方の勝家嫁入りは、止めない。
止めてはならない。
その結果、北ノ庄が落ち、お市の方は死に、
茶々をはじめ浅井3姉妹は敗者の娘として歴史に放り出される。
茶々は、誰かの悪意によって歪むのではない。
政によって作られる。
しかし、放置すれば、歴史は、同じ形に収斂する可能性がある。
私は膝の上で指を組んだ。
冷静に考える。
感情は、いらない。
同情も、後回しだ。
秀吉に子ができない可能性は高い。
あれだけの側室を抱えて一人も生まれないのは不妊症か遺伝的疾患の可能性がある。
史実では、なぜか茶々にだけ生まれた秀頼も、結局は政権を支える「核」にはならなかった。
では、どうする?
….選択肢は3つ。
一つ
史実通り、秀吉の側室にする。
これは論外だ。
政権の基盤づくりの話をしているのに、それをぶち壊す爆薬を中枢に抱える理由はない。
二つ
始末する。
最も簡単で、最も確実だ。
だが――
私はそれを選ばない。
13歳の娘を殺して得られるものは、何もない。
違う道を取れるのに、その努力もせず「簡単」という理由で殺すなら、私はただの殺人者だ。
三つ
自分が抱える。
秀長の子として。
羽柴の一門として。
秀吉の甥、そして、秀吉の養子として。
茶々を妻に迎える。
……合理的だ。
まず、秀吉の側室にならない。
これだけで、歴史は大きく変わる。
次に、織田と浅井の血を「敵」ではなく「親族」にできる。
北近江の旧臣たちへの効果も大きい。
なにより、私の妻である限り、政治的な役割は限定される。
仮に私が秀吉の養子となり後継となった場合、茶々は基本的に「奥」の人間になる。
まぁ…..私の次が問題になる可能性もあるが…..
秀吉にとっても悪い話ではない。
織田と浅井の血を家に取り込むことで、名が立つ。
一門の格が上がる。
今日の様子を見る限り、ねね様もこの道筋の賛同者にできそうだ。
だが。
私は小さく息を吐いた。
私も、幸せになりたいと思う。
この新しい人生を政略だけで終わらせることはしたくない。
もし、茶々が――
傲慢で、残酷で、他人の不幸を踏み台にする女だったら。
そのような人間に変質してしまっていたならば。
その時は。
私は、手を引く。
遠国の大名に嫁がせる。あるいは、寺に入れる。
それでも足りなければ….
その時に考えよう。
今は、決めない。
北ノ庄が落ちた後。
実際に会ってから。
顔を見て、声を聞いて、目を見る。
それで判断すればいい。
人を、歴史という結果で判断してはいけない。
今、この時を懸命に生きる真の姿を見つめたいと思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
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