第11話 小堀正次の思い
天正8年(1580年)8月 近江・長浜城 小堀正次
小堀正次は、蔵の勘定がすべて合ったことを確認してから、ようやく筆を置いた。
米の放出量。
売却先。
戻ってきた銭。
帳面上の残高。
すべて一致している。
市が荒れずに済んだかどうかを判断するには、もう少し時間がかかる。
だが、今の城下の空気からはおそらく問題はないだろう。
正次は近江の国衆である。
浅井家に仕え、戦よりも検地と年貢割付、寺社交渉や城下町普請で使われてきた。
いわゆる「奉行衆」の系統の人間だ。
浅井が滅びたとき、多くの同輩は討死し、あるいは浪人となった。
だが、正次は生き残った。
理由は単純だ。
武で名を挙げる才がなかった。
代わりに、土地と人と銭の扱いを知っていた。
羽柴が北近江に入ったとき、必要とされたのはそういう人間だった。
その後、城主羽柴秀吉様の弟・秀長様が、舅・磯野昌員殿の次女を妻に迎えられたことで、私の立場は安定した。
磯野家は浅井家中でも有力な家であり、その系譜として、羽柴政権下では「旧浅井系国衆の代表格」かつ「城主の弟の縁者」として、一定の敬意をもって扱われている。
正次自身も、その自覚がある。
確かな武功はない。
しかし、近江を荒らさず、民の暮らしを守る仕事なら自分にできる。
秀長様は覇権の色が強い織田の武将でありながら、正次と同じ種類の現実主義者である。
無理をしない。
約束を破らない。
民の声に耳を傾け、家臣の思いに配慮する。
数字に基づいた判断を重んじる。
「兄上は国を取る人だが、私は国をまわす人間だ」
そう言った男だ。
正次はその下で、
•検地の書式を整え
•年貢率を固定し
•城下町の区画を決め
•国衆の知行を再配分し
そういう仕事を続けてきた。
だから今日、長浜で起きた米騒ぎも、正次にとっては異常事態ではない。
戦が続けば米は動く。
米の確保に不安が広がれば民が動揺する。
動揺する前に適切な措置をとれば速やかに収まる。
動揺の元が民の不安である以上、その不安を取り除けば案外すぐに落ち着くものだ。
どれも想定内だ。
問題は一つだけ。
それを進めたのが、六つの子供だったこと。
政所の灯りの下に、その本人がいた。
「小堀殿」
竹若様。
正次の妻の妹の子であり、秀長様の嫡子。
義理の甥にあたるが、立場は主君の子である。
「まだ起きておられましたか」
「うん、市はちゃんと落ち着いた?」
「大丈夫でございます。若様の狙いどおりに」
「そう、よかった」
それだけ言って帳面を抱え直す。
正次は思う。
この子は、民の心を読み取り、物と銭の動きを見通す力を持っている。
そして、判断し行動できる。
それは為政者の力だ。
秀長が優れたそれであるように。
「若様」
正次は形式通り膝を折った。
「今日のことは、秀長様なら同じことをなさったと思います」
「若様がされたことは、政として正道でありました」
「よく思いつかれました感服いたします」
竹若は照れくさそうに頷いた。
正次は少し考えてから答える。
「秀長様は、人の話をすべて聞きます」
「帳面もすべて読みます」
「村も城も、全部ご自分で確かめようとなさる」
「それは、領主として正しい」
「ですが、とても疲れます」
竹若は素直に言った。
「父上はすごいと思う。このようなことを毎日しているなんて」
正次は小さく笑った。
「はい」
「ですので、我々がそれを支えなければなりません」
「今日、若様は、我々を頼ってくださいました。それが何よりも嬉しく思います」
良案を思いつくことと、それを用いて解決に繋げることは根本的に違う。
いくら利発で機転が利いても所詮は子供。政への発案はなかなか口にできまい。
それをこの子は、解決策を自ら編み出し、方針を示して実行を周囲に委ねた。
並大抵のことではない。
竹若は少し考え込んだあと、言った。
「自分だけでできることは限られているものね」
「私も早く父上に頼られるようになりたい」
正次はこの利発で素直な義理の甥ににこやかに応じた
「若様は、今はしっかり学びましょう」
「学ぶことは多うございます」
「身体も鍛えねばなりません」
竹若は小さく頷いた。
身体を鍛えるという言葉に少し眉が動いた。
その姿を見ながら、正次は思う。
この子は戦場で武を振るう将にはならない。
しかし、民をまとめ、将をまとめて戦を動かす大将に、いや、その戦を碁盤のように俯瞰し、準備を調え、始め、終わらせる為政者が似つかわしい。
そうなってほしいものだ。
正次は自分の子のことを思い出す。
まだ生まれたばかりの男児。
政一と名付けた。
この子はきっと、戦ではなく、別の場所で生きる。
時代は、少しずつ変わってきている。
織田により尾張、美濃、近江、越前、京、播磨が平定され、統治が進んでいる。
今もその範囲が広がりつつある。
竹若や政一のような子がそれを当然のものとして育つなら、
戦の世は、いつか終わるのかもしれない。
正次は帳面を閉じた。
政とは、名も残らぬ人間が、同じ作業を繰り返すだけの営みだ。
だが、その繰り返しこそが、豊かで安らかな世を作っていくのだと信じている。
竹若様が道を間違えぬよう、何よりも健やかに育ってくれるよう全力を尽くさねばなるまい。
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