第10話 伯父の顔――秀吉という男
天正8年(1580年)8月 播磨・姫路城 羽柴秀吉
播磨、姫路城。
中国山地から吹き下ろす風は夏の湿り気を帯び、黒板の長い廊下に重く溜まっていた。
瓦屋根の向こうでは蝉が一斉に鳴き立て、城内の井戸から水を汲み上げる音が、規則正しく響いている。
この城は今、織田家中国方面軍の司令部となっている。
播磨、備前、備中へと戦線を押し広げ、毛利家と睨み合う最前線の後方拠点。
城内には毎日のように戦況報告が届き、兵糧の不足、兵の補充、諸将からの訴えが絶えない。
羽柴秀吉は、その喧騒から少し離れた縁側に腰を下ろしていた。
鎧も陣羽織も脱ぎ、素足のまま。
戦場の将ではなく、ひとりの男の顔で、一通の文を開いている。
差出人は、ねね。
丸く、少し右に流れる癖のある文字。急いで書いたのだろう、ところどころ墨が濃い。
几帳面とは言えないが、どこか温かみのある筆跡だった。
読み進めるうちに、秀吉の口元が自然と緩む。
「……あいつの子がのぉ」
思わず漏れた呟きに、自分でも苦笑した。
傍らに控えていた黒田官兵衛が、そっと視線を向ける。
官兵衛は、播磨に入ってから秀吉に仕える軍師であり、戦場では冷徹な判断を下す男として知られている。
だが、主君の表情の変化には、人一倍さとかった。
「何か、良い知らせでございますか」
「良いも悪いも」
秀吉は文を軽く振ってみせる。
「長浜で米が上がったそうじゃ」
「で、城の蔵を使って、市を落ち着かせたと」
官兵衛が眉を上げる。
「それは……容易ではありませんな」
「そうじゃろ」
秀吉は頷いた。
「町人も百姓も、腹が減れば暴れる」
「蔵を開くのは勇気が要る」
「銭も帳面も、間違えれば責めを負う」
そして、少し声を落とした。
「だがな、それを考えたのが秀長でも、羽田や小堀でもなく」
一拍置いて、
「……あの、竹若じゃと」
官兵衛は一瞬、言葉を失った。
「秀長殿の若君が……?」
「齢六つか」
秀吉は肩をすくめる。
「まだ碁石より団子を好む歳じゃ」
「なのに帳面を見て、値を決めたとよ」
秀吉は文の一節を指でなぞる。
「“静かに成長している”と」
「……あいつの子らしい」
しみじみと呟く。
秀長は今、竹田城にいる。
但馬と播磨という新しい領地を預かり、検地をやり直し、国衆と交渉し、城を整えている最中だ。
兄が戦場で城を落とす間、弟は帳面と人心で国を固めてきた。
官兵衛が控えめに言う。
「秀長殿の御子であれば、不思議ではありません」
「ああ」
秀吉は即座に答える。
「頭の出来もそうだが……」
「何より、あいつに似ておる」
「前に出るより、後ろで整える」
「声を張り上げるより、黙って考える」
官兵衛は小さく微笑んだ。
「殿とは、正反対でございますな」
「やかましい」
秀吉は笑いながら、小石を拾って庭へ放る。
「儂は戦場で喚く猿じゃ」
「秀長は机に向かう狸じゃ」
「その子は……」
少し考え、
「帳面を見る子狸か」
官兵衛が、思わず吹き出しかける。
「……それでも」
秀吉は空を見上げた。
「可愛いもんじゃ」
「弟の子というのは、それだけで可愛い」
「初めて会うた時なんぞ、ずっと袖を握っとった」
「覚えとらんだろうがな」
官兵衛は静かに尋ねた。
「信吉殿(秀吉の同母姉・ともの子、後の羽柴秀次)のことは」
秀吉は頷く。
「もちろん、あれも可愛い」
「姉の子じゃ」
「武もあるし、悪い子ではない」
だが、すぐに言葉を継ぐ。
「だが、竹若は……」
少し言葉を探す。
「小一郎の子じゃ」
「ねねが言うには、わしにもよく似とるという」
そして、照れたように笑った。
「それに」
「儂には子がおらん」
その一言には、隠しようのない寂しさが混じっていた。
百姓同然から天下を伺う織田家の軍団司令官まで上り詰めた男の言葉とは思えぬほど、素直で、弱い響きだった。
官兵衛は何も言わなかった。
秀吉は文を丁寧に畳み、懐へしまう。
「長浜へ戻ったら、竹若に会おう。そして思いっきり抱き上げる」
「帳面ばかり見ておるなら、団子でも食わせてやる」
官兵衛が微笑する。
「殿は、本当に身内にお甘い」
「要らぬご忠告を申し上げると、まずはねね様に」
「うるさい、わかっておるわ」
秀吉は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「……あいつらは、儂の宝じゃ」
弟も、その子も。
戦太鼓の音が、遠くで鳴る。
だが、この城の一角だけは、ひととき穏やかだった。
秀吉の目には、戦場ではなく、
長浜の縁側で帳面を覗き込む、小さな影が浮かんでいた。
墨で汚れた指。真剣な横顔。
大人たちの会話を、黙って聞いている姿。
それは、野心でも、打算でも、政略でもない。
ただの――
伯父としての、素直な情だった。
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